Thursday, March 3, 2016

0075 イエルサレムのアイヒマン ハンナ・アーレント ★★



ナチスドイツによるユダヤ人虐殺計画において、六百万人を「処理」するための効率的なシステムの構築と運営に主導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンは、1960年、アルゼンチンで逃亡生活を送っていたところを非合法的にイスラエルの秘密警察によって拿捕され、イェルサレムで裁判を受け、処刑されます。このとき、連行されたアイヒマンの風貌を見て関係者は大きなショックを受けたらしい。それは彼があまりにも「普通の人」だったからです。

アイヒマンを連行したモサドのスパイは、アイヒマンについて「ナチス親衛隊の中佐でユダヤ人虐殺計画を指揮したトップ」というプロファイルから「冷徹で屈強なゲルマンの戦士」を想像していたらしいのですが、実際の彼は本書の表紙に見られる様な、小柄で気の弱そうな、ごく普通の人物だったのです。しかし裁判は、この「気の弱そうな人物」が犯した罪の数々を明らかにしていきます。

本書は、この裁判を傍聴していた哲学者のハンナ・アーレントが、裁判のやり取りを記録しながら、自分なりの考察をまとめたものです。この本、主題はそのまんま「イェルサレムのアイヒマン」となっていてわかりやすいのですが、問題はその副題です。アーレントは、この本の副題に「悪の陳腐さについての報告」とつけているんですよね。

「悪の陳腐さ」。。。。。

奇妙な言い回しですよね。通常、「悪」というのは「善」に対置される概念で、両者はともに正規分布でいう最大値と最小値に該当する「端っこ」に位置づけられます。しかし、アーレントはここで「陳腐」という言葉を用いています。「陳腐」というのは、つまり「ありふれていてつまらない」ということですから、正規分布の概念をあてはめればこれは最頻値ということになり、我々が一般的に考える「悪」の位置づけとは大きく異なります。

アーレントがここで意図しているのは、われわれが「悪」についてもつ「普通ではない、なにか特別なもの」という認識に対する揺さぶりです。アーレントは、アイヒマンが、ユダヤ民族に対する憎悪や欧州大陸に対する攻撃心といったものではなく、ただ純粋にナチス党で出世するために、与えられた任務を一生懸命にこなそうとして、この恐るべき犯罪を犯すに至った経緯を傍聴し、最終的にこのようにまとめています。曰く、

「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」と。

そしてアーレントは、「陳腐」という言葉を用いて、この「システムを無批判に受け入れるという悪」は、我々の誰もが犯すことになってもおかしくないのだ、という警鐘を鳴らしています。別の言い方をすれば、通常、「悪」というのはそれを意図する主体によって能動的になされるものだと考えられていますが、アーレントはむしろ、それを意図すること無く受動的になされることにこそ「悪」の本質があるのかも知れない、と指摘しているわけです。

率直に言って、むちゃくちゃ読みにくい本です。これはハンナ・アーレントの著作全般に言えることですが、観察事実と感想と考察がまだら模様のようになっている上に、論理展開が右顧左眄するようなところがあって、何を言おうとしているのかよくわからない箇所がかなりあります。だから、エッセンスだけを汲み取りたいという人であれば、まずはエピローグから読んでみるといいと思います。本書を通じてアーレントが全世界に訴えたいことは、すべてここに書かれていると思います。

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