Thursday, March 3, 2016

0073 日本史の謎は「地形」で解ける 竹村公太郎 ★★★


学生時代に日本史を習っていて、いつも気持ち悪いなあと思っていました。いろんな事件や事象に関する教科書の説明に対して、なんとも腑に落ちない感じがしたからです。

例えば、家康は関ヶ原の勝利後に、なぜすぐに江戸に幕府を作ったのか。家康はもともと三河(愛知県)の出身で、関ヶ原の直前は甲府に城を作ろうとしていました。そういう彼が、なぜ関ヶ原の直後、まだ影響力のある豊臣家と淀君は大阪にいる時期に、江戸に戻って幕府を開く。どうして?と思いますよね。

あるいは信長による比叡山延暦寺の焼き討ちもそうです。あれほどの武力と権力を持っている武将が、なぜ一介の寺を焼き討ちし、皆殺しにまでする必要があったのか?教科書にはそれなりの理由が書いてありましたが、皮膚感覚に照らせば違和感を拭えない、なんか釈然としないなあとずっと思っていたんです。

本書は、こういった「日本史の中における、なんとも理由がよくわからない大きな事件や事象」を取り上げ、それを地形との関係で読み解くとあら不思議、そうせざるを得なかった理由がスルスルとわかりますよ、という本です。先述した家康の江戸開府も信長による比叡山焼き討ちも、地形との関係からそうせざるを得なかったという本書の説明を読むと、なるほど確かにそうだと思わせられます。なかには「?」と思わせるものもないではないのですが、切り込んでいく角度がとても面白い。

例えば家康による江戸開府を取り上げてみましょう。家康が江戸に幕府を開いた当時、関東一円はほとんどが湿地帯で、畑作には全く向かない、劣悪で希望のない土地でした。豊臣家から江戸への転封を命じられた家康は黙ってこれに従いますが、家臣は激昂したと言われています。それほどに酷い土地だったのですが、家康は違う見方をしていたようです。詳しくは本書を読んで欲しいのですが、湿地帯というのが鍵です。湿地帯というのはそこかしこに川が流れているということです。では当時、最も早い通信手段はなんであったか?江戸時代の通信といえば飛脚を思い出しますが、実は一番早いのは運河を通じた連絡なんですよね。と、ここまで書けばなんとなく見えてきますよね。

あるいは信長による延暦寺の焼き討ちもそうです。信長は戦国時代を通じて最も戦略的思考に優れていた人です。そういった人が、教科書に説明してあるような無為な理由のために比叡山を焼き討ちすると考えるのは不自然です。むしろ信長はとても延暦寺を恐れていたと考えるべきでしょう。なぜ?それは京都の地形を考えてみるとわかり易い。京都は四囲を山に囲まれた盆地です。信長のいる安土から京都に上洛するには北東側を囲む山の隘路を抜ける必要があり、そしてその隘路を見下ろす位置にあるのが延暦寺です。

さて信長がその名を全国に知らしめたのは桶狭間の戦いです。この戦いでは兵力二万を数える今川義元の軍勢をはるかに少ない兵数で討ち取ったわけですが、それが可能だったのは桶狭間が文字通り「狭い間」、つまり隘路だったからです。信長は義元の大軍が最も伸びきって兵力が分散する箇所を桶狭間であると判断し、地元の農民を誘導して大量の酒・食べ物を届けさせ、義元は信長の思惑通り田楽狭間で休憩を取らせます。信長は、このタイミングを見計らって側方から奇襲をかけ、今川義元を討ち取ったわけです。そのような信長にとって、京都上洛の際に自分たちが通過せざるを得ない隘路について、どのような思考を巡らせたかは容易に想像できます。

本書では、こういった「日本史の中における、なんとも理屈がつかない事件や事象」を十八個取り上げて、それを地形や地政との関係から解釈して「おそらくこういう意図だったのではないか」という仮説を提示・説明しています。そのそれぞれに歴史的な学びがあり、また推理の進め方は分析的思考・抽象的思考の見本と言っていいものです。

本書を読むと二つのことを考えさせられます。

一つ目は、歴史に名を残した武将たちの地政学センスの高さです。先述した家康や信長は、武力や政治といった側面で優れていただけでなく、一種の都市開発、国土デザイナーとしても抜群のビジョンを持っていたことがわかります。

二つ目は、著者である竹村公太郎さんの知的態度です。竹村さんはもともと建設省の役人で、全国を土地開発で飛び回っているうちに、土地の有り様が文化や社会を規定すると考えるようになったそうです。本書で竹村さんが示している知的態度、つまりいかにもそれらしい教科書的な説明を鵜呑みにせずに、自分の観察と思考を頼りにして仮説を丁寧に積み上げていく、という態度は多くの人にとって参考にするべきものと思います。

読むと旅に出たくなる本です。面白いですよ。

No comments:

Post a Comment