Friday, March 4, 2016

0065 弓と禅 オイゲン・ヘリゲル ★★★


著者のヘリゲルは大正時代の終わり頃に、東北帝国大学から招かれて哲学教授を務めた人物です。エミール・ラスクに師事しているので、系譜としてはいわゆるカント派ということになりますが、本人もカント派の正当な後継者であることを自負していたようです。

本書は、そのヘリゲルが日本滞在中に習った弓術修行の記録です。ヘリゲルに弓術を指南したのは、弓聖と言われた阿波研造です。この修行のプロセスの中で、ヘリゲルは「世界を認識する枠組み」そのものの大転換を経験することになります。ちなみにスティーブ・ジョブズは生涯にわたって本書を愛読したそうです。

ひきしぼった弓によって運動エネルギーを矢に与え、的に当てる。弓術は物理的運動そのものであり、従って的に当てられるかどうかは、この物理的運動をいかに制御できるかにかかっている・・・というのがカント派哲学者であるヘリゲルの考え方で、これは今日の私たちにとっても違和感がありません。

ところが師匠の教えはことごとくそれを否定するわけです。どんなことを教えられているかというと、

あなたは的を狙ってはならない。
そもそも矢を放とうとしてはならない。
あなたが射るのではなく「それ」が射る。
だから「それ」に射させなさい。
笹の葉に積もった雪が自然に落ちるように、矢が手から離れる。

阿波建造の教えに、ヘリゲルは戸惑い、やがてフラストレーションを爆発させて、師匠に食ってかかります。

的に当てるのが弓術である以上、的を狙わなくては当たるわけがない。的を狙わずに的を射るというのであれば、師匠は暗闇の中で的に当てられるのか?

この挑発に阿波建造は乗り、日没後、ヘリゲルと阿波建造は道場に集まります。さあ師匠は本当に真っ暗闇に沈む的を射ることができるか?この体験はヘリゲルにとって衝撃的だったようで、この日を境に、西洋的な論理・思考・言語の限界を突き抜けた先にある「何か」の存在を確信し、悟りに少しずつ近づいていくことになります。

本書には二つのクライマックスがあって、一つ目はこの「真っ暗闇に沈む的を射る」シーン。二つ目は、阿波建造が指導の中でたびたび言及する「それ」が現出するシーンです。

的を射るという囚われの雑念を払って、淡々と「いま、ここ」のプロセスに集中するということを繰り返していたヘリゲルが、ある日、一本の矢を放った際、師匠の阿波建造は居住まいを正し、深々とヘリゲルに対して礼をします。何が起こったのか、ヘリゲルはよくわかりません。阿波建造は、いまの矢は「それ」が射ったのだ、とヘリゲルに悟します。

阿波建造がたびたび言及する「それ」については、僕もよくわかりません。ただ、この箇所を読んでいて、童話の『のんちゃん雲に乗る』を思い出したんですよね。良い子で優等生であることを自負するのんちゃんは、雲の上で出会ったおじいさんから「ひれ伏す心を持たないとといけない」と諭されます。おじいさんのいう、この「ひれ伏す心」というのがどういうものなのか、ずっと気になっているのですが、阿波建造師匠が、「それ」に最敬礼するシーンに、ああこういうことなのかもしれない、と思ったんですよね・・・すみません、全然説明になっていませんが。

現在の僕らは、いわゆる形式論理の世界にがんじがらめにされてしまっていますよね。形式論理はアリストテレス以来、西洋の哲学が追求してきた知性の様式で、ヘリゲルはその最先端を担う人物であることを自他共に認めていました。本書は、そのような人物による「日本的な知性の様式の存在とその畏れ多さ」について書かれている本だと思います。これは西洋では例えばベルクソンが、日本では小林秀雄先生なんかも言っていることで、改めて僕が言うべきことでもありませんが、西洋的合理主義の有用さは理解した上で、それを超えたもの、畏れ多いものがあることを認識しておくこともまた必要なのではないでしょうか。

これまでの人生でたくさんの本を読んできましたけど、本書ほどに魂を揺さぶられるような体験というのはなかなかありません。強くお勧めします。

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