Monday, August 22, 2016

0086 村に火をつけ、白痴になれ 栗原茂 ★★★


なんともスゴイタイトルですが、内容は大正期に活躍した女性評論家・・・というか無政府主義者・・・うーん、なんと記述しても、この人、伊藤野枝の八方破な人生を正確に言い得ない気がするのですが、とにかくそういったツマラナイ肩書きを拒否し尽くして笑いながら屹立するような人、そういう人の評伝です。

で、それでは説明になっていないので、別の角度からの記述をすれば、

とにかく「わがまま」ということを、徹底的に突き詰めて生ききった人

ということになるかと思います。

社会的な常識やルールをことごとく破り、だってそうしたいから、だって嫌なんだもん、の繰り返しで、最後にはご存知の通り、28歳の若さで憲兵隊にリンチされ、井戸に投げ捨てられてしまった人の壮絶な人生が描かれた本です。

あんまり知られていないことですが、伊藤野枝は、平塚らいてうが始めた初の女性向け雑誌である「青踏」の第二代編集長でもあった人です。平塚が忙しくって雑誌の編集はできないということで、半ば乗っ取る形で編集長におさまったんですが、野枝もあんまり仕事をしないので結局のところ「青鞜」は廃刊になってしまう。

じゃあ伊藤野枝はなにに忙しかったのかというと、これが驚くべきことにセックスなんですね。あの人素敵、セックスしたい、この人素敵、セックスしたい、ということで忙しくてしょうがない。で、この望みがことごとく叶っていくので、おそらくきっと魅力的な人だったんでしょう。写真を見ても別にセクシーというタイプでもないのですが、なんというか、センシュアルなところがあったのでしょうね。

当時モテモテだったアナキストの大杉栄は、野枝に出会った当時すでにドロドロの三角関係で、苦し紛れに自由恋愛論、結婚制度否定論を雑誌に寄稿していたのですが、野枝に出会ってゾッコンになってしまい、グニャグニャの骨抜き状態になってしまいます。よっぽどソソルものがあったのでしょうなあ、なんだか想像してしまいます。

面白いというか・・・笑ってはいけないのですが、困ったのは大杉栄をリーダーとしたう社会運動のメンバーたちです。我らがリーダーは、最近アジ論文も書かないし、集会にも来ない・・・一体何をやっとるんだ?ということで調べてみると、伊藤野枝という女と昼も夜もとにかくヤリまくっているらしい・・・。

ということで、社会運動の面々からは伊藤野枝は、偉大な社会改革リーダーである大杉栄を堕落させた張本人ということで、攻撃の標的にされることになります。ところがこれにまったく負けていないのがすごいところで、こんな感じだったようです。

この時期、社会主義の運動もうまくいっていなかったこともあり、その怒りの矛先が野枝に向けられたのである。11月2日、「近代思想」からの仲間であった五十里幸太朗が、ホテルをたずねてきた。あがりこむなり、五十里は野枝の顔をぶん殴った。ええっ、大杉がびっくりしていると、なぐられて憤慨した野枝が、「ウオオ!!!」といいながら五十里にタックルを仕掛けている。取っ組み合いになり、五十里を押し倒すと、マウントポジションを取って、そのままバシバシとぶん殴った。野枝の圧勝である。五十里は泣きながら帰っていった。(p88)

とまあ、こんな感じだったようです。最終的に大杉の四角関係ももつれにもつれて、以前からの愛人であった神近市子に葉山の日影茶屋・・・これは僕の家のすぐそばなんですが、に短刀で喉元を刺されて瀕死の重傷を負ったりと、もうハチャメチャとしか言いようのない乱脈人生で、最後には大杉と甥っ子と一緒に、憲兵隊の甘粕にリンチの上に虐殺され、井戸に投げ捨てられてしまうという、そういう人物の評伝です。

おそらく普通に教育されてきた人が読んだら、多くの部分について嫌悪感や違和感を覚えることになると思います。じゃあ何のために読むのかというと、その嫌悪感や違和感を、自分が抱えるその理由について考えてみることが、大事なんじゃないかと思うんです。

私たちは、「わがまま」ということに関して、徹底的にネガティブなものであるという刷り込みを、幼少期から受けていますよね。しかし、本当に「わがまま」ということは、良くないことなんでしょうか?もしかしたら「わがままは良くない」と思う、その価値観や道徳観が、自分の可能性を毀損しているのではないか。結果的に、伊藤野枝の人生は幸福なものだった、とは言い難い終わり方をしているわけですが、それでもこれを読む人に対して、何らかの認識の揺さぶりをかけるものがあると思うのですよね。

「わがままであること」の重要性を生涯にわたって説き続けた人物の一人にヘルマン・ヘッセがいます。ヘッセは、その名もずばり「わがまま」というタイトルのエッセイまで表して、「わがままのすすめ」を訴えました。ちょっと抜粋してみましょうか。

わがままが、さほど愛されていないのは残念なことである。わがままは何らかの敬意を受けているだろうか?おお、とんでもない。それは悪徳とさえ、さもなければ嘆かわしい無作法とさえみなされているのである。世の人は、それが人に不快感を与え、憎悪を引き起こす時だけ、それを本来のまともな名で呼んでくれる。ついでに言えば、本物の美徳はいつも人に不快感を与え、嫌悪感を引き起こすものだ。ソクラテス、イエス、ジョルダーノ・ブルーノ、およびその他全てのわがままものを見るがよい。
ヘルマン・ヘッセ「わがままこそ最高の美徳」より

とまあ、こんな感じに「わがまま」を激賞しているわけです。でも考えてみれば、ここにヘッセが上げているソクラテス、イエス、ジョルダーノの三人も結局、大杉や野枝と同じように処刑されていますよね。やっぱり、世の中の人はみんな「わがままな人」が怖かったり嫌いだったりする、ということなんでしょうか。新約聖書のマタイ福音書の8.28には、「二人は非常に凶暴で、だれもそのあたりの道を通れないほどであった」という二人をイエスが追い払った後で、やってきた村人は「イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいといった」とありますものね。ふー、度し難いな。

そういえば、伊藤野枝に関するこの本を読んでいる時に、しばしば思い出されたのがデニス・ホッパー主演の「イージーライダー」のこんなセリフです。この映画でも、ハーレーに乗って自由を満喫するための旅に出た中年男性の二人は、最後には保守的な人たちに虐殺されてしまうわけですが、徐々に迫り来る社会的な敵視を目の当たりにして、ジャック・ニコルソン演じるジョージ・ハンセンは鋭くもこう指摘します。

連中は君たちを恐れているわけじゃない。君たちの長い髪が象徴するものを恐れているんだ。この国では「個人の自由」が一応は国是になっているが、本当の「自由な個人」を見たとき、自由でない者はそれを恐れ、憎むんだ。
「イージーライダー」より

伊藤野枝に関するこの評伝を読んでも同じだよな、と。もしこの本を読んで嫌悪感や違和感を抱くとしたら、それはもしかしたら自分の中の恐れや憎しみの反映なのかも知れないなと、と思って読むといろいろと感じるところがあると思いますよ。

















ヘルマン・ヘッセ

Thursday, April 21, 2016

0085 馬券偽造師 中山憲治 ★★★


著者の中山憲治氏はもともとはプロの印刷技術者で、競馬はあくまで趣味でやっていた人です。それがある時、ふとプロならではの好奇心から、馬券にはどんな印刷技術が盛り込まれているのだろう?と思い立って調べてみるところから、もう面白すぎて止められません。

メーカーがライバル商品の研究をする時にやるリバースエンジニアリングもかくや、という緻密な分析の結果、もしかしてこれは作れるんと違うか?と。そこからのトライ&エラーはまさに執念としか言いようがありません。

本書は徹頭徹尾、犯罪の記録でしかないんですけど、読んでいて浮かび上がってくる精神性は犯罪者のそれでは全くなく、もうプロフェッショナリズムそのものです。俺の偽造を見破れるものなら見破ってみろ。ルパン三世は幻の偽札「ゴート札」をして「かつて本物以上とまで称えられた」と言っていますが、本書でも同様の記述があって、あまりにも完璧に偽造してしまうとかえって他の馬券から浮いてしまう・・・だから絶妙な程度にフォントのフチをぼやかして、他の馬券と混ぜた時に自然に見えるようにする、といったことが書かれています。

まことに、なんでも突き詰めた人は一つの奥義に至るというか、職業が異なるというのは入り口が異なるということなんですけど、突き詰めていって到達する奥の部屋は実は一つなんじゃないかという。

繰り返しますけど、この本は徹頭徹尾、犯罪の記録でしかないんですけど、読んでいて一種の爽やかさを感じるのが、著者の中山さんが、偽造馬券でだまし取った百万円単位のお金を、ことごとく競馬でスってしまっていて、自分の手元には全くお金を残さなかった、という点でしょうか。不思議な感覚ですよね・・・偽造馬券で何百万円もだまし取った、その直後に正規馬券を買うために、同じ額をぶっ込んで負けているという・・・。

面白いのが、犯罪が発覚してから、実は十年以上にわたってやっていて、合計で十億以上だまし取ってます・・・と自白した著者に対して、被害者である当のJRAが頑なに「馬券の偽造は絶対に不可能。ましてや十年以上にわたって発覚しなかったなんて有り得ない」と、頑なにそれを認めようとしなかったというところです。検察が困惑するんですよね、被疑者が犯罪を自白しているにもかかわらず、被害者が頑なにそれを否定しようとするという、実に不思議な裁判です。普通は真逆だもんね。

プロフェッショナリズムとかフロー体験とか、いろんなテーマと絡んでいる本なので、人事とか育成とかに関係のある仕事の人であれば、何か得るところがあると思います。夢中になれる何かを見つけると、人間ってここまですごい集中力を出せるんだなあ、という感慨を改めて得ました。





Friday, March 25, 2016

0084 小林一三 時代の十歩先が見えた男 北康利 ★★★


過去の優れた経営者を思い返すと、そこには二つのタイプがあるように思われます。

一つはソニーの盛田昭夫さんやホンダの本田宗一郎さんのような「モノづくり」に秀でた才能を発揮した経営者で、ここではこれを「エンジニア型経営者」と整理してみましょう。

一方で、特にモノを作ったわけではないのだけれど、やはり大きな事業を育てあげた経営者も思い浮かびますね。こういった経営者は、先ほどの「モノづくりに秀でた才能を発揮した経営者」に対比すれば、いわば「仕組みづくりに秀でた才能を発揮した経営者」と言えるわけで、これを「プロデューサー型経営者」として整理すれば、その筆頭に挙げられるのが小林一三であろうと思われます。

本書の紹介文を見ると「宝塚歌劇団を作りあげた男」と紹介されていますが、小林一三の業績はそんなものではありません。乾いた紹介の仕方をすれば、阪急電鉄の事実上の創業者、というコトになるわけですが、小林一三の本当の凄さは、鉄道というサービスのもたらす外部経済性に着目して、一種の事業エコシステムを作りあげた点にあります。

線路を引いて鉄道を走らせ、乗った人から距離に応じた運賃を取る。これが鉄道事業の基本です。したがって鉄道事業の収益は旅客数X運賃の積になるわけですが、小林一三は旅客数を増やすために様々な付帯サービスをパッケージ化したんですね。

例えば旅客需要を増やすためには郊外にベッドタウンを作り、そのベッドタウンと都市部を結べばいい。ところがベッドタウンを作っても家を買える人はそう多くないので、当時は着物の販売にしか用いられていなかった月賦販売に目をつけ、金融機関と提携して「住宅ローン」という仕組みを作って郊外の宅地を大量に売りさばく。

あるいはターミナル駅に劇場=宝塚歌劇場や映画館=東宝、百貨店=阪急デパートを設置して、通勤需要が取り込めない週末に人を動かすことで金を取り、動いた先でも金を落とす仕組みを作り上げる。

果ては、通勤需要が低迷する夏休み時期に、逆に全国から人を取り込むためのスポーツイベントとして阪急沿線の豊中にあった原っぱを活用することを思いつき、全国高校野球大会という集金システムを構想する等々。

小林一三がやったことを経済学的な用語で言えば、とにかく、鉄道輸送が作り出す外部経済性を徹底的に取り込むビジネスモデルを生み出したということになります。面白いのは、ここで小林一三がやっているのは徹底的にプロデュースでしかない、ということです。ここが冒頭にあげた「エンジニア型経営者」と異なるところです。

日本のモノづくりの力の衰退が叫ばれて久しいですが、未だに多くのメーカーは「良いものを安く」という発想から抜けきれず、エンジニアリング重視の競争力構築に邁進しているように見えます。一方で、小林一三のようなプロデューサー型の経営者はなかなか育ってこないし、そもそもそういう人材を評価して育てようとする気風も薄いように思います。モノを作る力で勝てなければ仕組みで勝つしかないわけで、これからの日本にこそ、小林一三のようなプロデューサーシップを持った経営者が望まれると思うんですけどね。

本書を読んでもう一つ感じるのが、リーダーシップの文脈依存性という問題です。先ほどもちらっと書きましたが、慶應義塾を卒業した小林一三が最初に入った会社は三井銀行でした。僕は見ていませんが、テレビドラマにもなったようなので、このあたりの顛末はご存知の方も多いかもしれませんが、三井銀行時代の小林一三は全くのダメ社員で左遷に次ぐ左遷に終始するんですよね。イノベーターというのは評価されないことが多いわけですが、日本の経済市場でも抜きん出たプロデューサーシップを発揮した経営者が、三十代まではうだつのあがらないサラリーマンに終始したという事実は、キャリアの面白さ、リーダーシップの文脈依存性について、深く考えさせられます。本人も「耐え難い憂鬱の時代」と述懐しているくらいだから、よっぽと水が合わなかったというか・・・まあ周囲の人材と器が違いすぎた、ということなんでしょう。

中途半端に優秀な人たちの集団に入ると、本当に優秀な人はむしろ沈んでしまうことが多い。思い出したんですけど白洲正子は骨董の選択について、贋作を掴むことを恐れていたら本当に優れた品は手に入らないと言ってますね。彼女は「真中の真は、往々にして贋物に見える。だからこそ贋物を掴むことを恐れていたら真中の真は手に入らない」と言っていますが、これは人材抜擢においてもイノベーションの実現においても言えるんじゃないかと思いますね。誰がどう見てもエリートで優秀という人ほど、意外と「そこそこ」でしかないということです。

読んでいて苦笑いするようなエピソードも多くて、僭越な言い方をすれば「愛すべき人物
だったんだろうなと思わせられます。ちなみに「ほめくりカレンダー」が大ヒットしている松岡修造さんは、小林一三の曾孫にあたる方です。誠に血は争えないというべきでしょうか。




Sunday, March 20, 2016

0083 プロカウンセラーの聞く技術 東山紘久 ★★★


著者の東山紘久さんは京都大学でながらく教鞭をとられた臨床心理学者です。本書は、プロのカウンセラーが現場で活用あるいは意識するべき31の「傾聴のテクニック」について説明している本です。僕もそれなりに臨床心理学者が書いた本を読んできましたけど、本書ほど具体的で、読んですぐに使えるという本はなかなかないと思います。

目次を読んでみるだけでその具体性の高さが分かると思います。例えば、わかりやすいものだけをピックアップしてみると、

01:聞き上手は話さない
04:相づちの種類は豊かに
08:自分のことは話さない
11:質問には二種類ある
12:情報以外の助言は無効
14:教えるより教えられる態度で
24:言い訳しない
25:説明しない
28:したくない話ほど前置きが長い

などは、目次を読んでいるだけでもハッとさせられます。

コミュニケーションの能力が、ビジネスパーソンにとってとても重要だということはよく認識されていると思いますが、ではコミュニケーション能力というのは、一体どういう能力なのか?よく顧客企業の人事の方とお話をしていると、新卒採用の基準で最も高頻度であげられる能力要件の一つがコミュニケーション能力なんですけど、ではコミュニケーション能力というのは、具体的にどういう能力なんですか?と伺うと規定できていないことがほとんどなんですよね。

単純に考えれば、コミュニケーションというのは情報のやり取りなわけですから、少なくとも「情報を押し出す能力」と「情報を引き出す能力」くらいには分解できそうです。そして本書は、徹底的に後者、つまり「相手から情報を引き出す」ためのスキルについて書かれています。

で、この「出す能力」と「取る能力」のバランスを考えてみると、今後はどんどん後者の重要性が高まるように思うんですよね。なぜかというと「学習」が非常に重要になってくるからです。知識やスキルがどんどん陳腐化する社会では、キャリアの全期間を通じて、どれくらい効率よく再学習できるかがその人の仕事人生の豊かさを決める重要な要素になってきます。で、学習というのは情報を「引き出す」ことで初めて可能になるわけですから、これは非常に重要だろうと思うわけです。

例えば現場を離れて久しい管理職が、最新情報のアップデートをしないままにリーダーとしてのオーソリティを維持できるかというと、これはとても難しい。裸の王様にいずれはならざるを得ないわけで、それを防ごうと思ったら、常に自分より若い人から意見や情報を引き出して再学習することが求められるわけです。

知識やスキルというものは、すぐに役立つものほどすぐに役立たなくなるという傾向がありますが、本書で学べる「傾聴の技術」は、読んですぐに役立つにもかかわらず、おそらく一生のあいだ、職場だけでなく家族やコミュニティの人間関係の改善や自分の学習に貢献してくれると思いますよ。

Tuesday, March 15, 2016

0082 写真がもっと好きになる。 菅原一剛 ★★


もとより写真好きという人であればもちろんですが、写真に興味はあるけれども、どこから手をつけていいのかわからない、という人にこそ読んでほしい本です。

僕個人は、本書を読んで二つのことを思いまして、順に一つずつ。

一つ目は、素直に写真に向き合うことの大事さです。写真に向き合った時に、自分の心の中に起こる変化に耳を澄ますこと。目を凝らして、写真をていねいに見る、観る、視ること、耳を澄まして、心の中に起こる感覚をていねいに聞く、聴く、訊くこと。

美術史なんぞを勉強すると余計な知識がいろいろと身についてしまって、素直な感覚に身を任せて作品と向き合うことが難しくなります。どうしても解釈しようとしてしまうんですね。でもこれがくせ者でして、そういう態度で作品に接してしまうと、その作品が本来的に持っている豊かさを十分に楽しめない、むしろ減殺してしまう可能性があります。

大好きな批評家のスーザン・ソンタグは著書『反解釈』のなかで、薄っぺらい芸術評論の横行を痛烈に批判して、次のように書いていますね。

都市の大気を汚染する自動車の排気ガスや重工業の煤煙と同様、芸術に対する解釈の横行がわたしたちの感受性を毒している。(中略)肉体的活力と感覚的能力の犠牲において、知性が過大に肥大する、という典型的な矛盾にすでに犯されているのがわたしたちの文化であるが、これに輪をかけるようにして、芸術にたいして知性が恨みを果たそうという試みが、すなわち解釈なのだ。
スーザン・ソンタグ『反解釈』より


芸術を解釈するっていうとまずは批評家ということになりまずが、では批評家とは何者なのか。批評家ってだいたいはアーティストになれなかった人が、行き詰まった末にしょうがなく食うためにやっている職業なんで、批評のクオリティが低いのは仕方がないんです・・・モチベーションが低いんでしょうね、というのは僕の意見ではなくって坂本龍一さんの意見ですが(※1)、さてどうなんでしょうかね。

これは写真に限らず、絵画でも彫刻でも詩でも音楽でもそうなんですけど、よく「わかる」とか「わからない」といったことを言う人がいますよね。ルノアールはわかるけどデミアン・ハーストはわからない、モーツァルトはわかるけどクセナキスはわからない、みたいな言い方なんですけど、じゃあルノアールがわかるの!?モーツァルトがわかるの!?すごいですね!!!と驚いてみせると、いや、わかるっていうか、なんか理解できるというか・・・みたいな中途半端な反応で終わることが殆どです。

そもそも「わかる」といってることが「わかってない」証拠で、芸術作品だけでなく、映画も人間も家具も法律もレトルト食品も「わかる」わけがないんです。じゃあどうするかとなると、かわりに「感じる」しかないということです。正しい「解釈」はない。わかるというのは正解がある世界を念頭に置いていますが、写真は謎解きではないので正解はない。ということで話を元に戻せば、この「感じる」ということをまずは最初に持ってこようよ、ということを再確認したのが、一番目に本書を読んで考えたことです。

で、二つ目は、写真を「撮る」側の態度、を再確認したということになります。どういう態度かというと、「映すべき被写体は、外の世界ではなく貴方の中にある」ということです。

高校から大学にかけて、付属高校ゆえに受験勉強の必要がないこともあって、ずっと作曲の勉強に没頭していました。本当に、学校の授業も最低限しか出席せずに、芸大の図書館や練習室に忍び込んで楽譜に向き合っていたんですけれども、今考えると「音楽を生み出す」という営みについて、長いこと根本的な勘違いをしていたんですよね。

それはどういうことかというと、僕は「どこかに素晴らしい音がある」と思って、自分の外の世界に音を探しに行くというモードでずっと作曲していたんです。これはまった才能がないからであって、今から考えれば本当に赤面するしかないんですけど、本当は、音楽を作るという行為は全く逆の営みで、「自分の中に鳴っている音に耳をすます、それを掬い取る」ということなんですよね。

で、本書を読んで、菅原さんが、写真を撮るという行為は対象となる世界を客観的に切り取る、ということでは全くなくって、その時に感じた自分の感覚を世界を題材にして写し取るという行為だ、という趣旨の指摘をされているのに接して、あああまた同じ勘違いをしていたんだな、と。写真を撮る時に一番大事なのは構図とか露出とか、まあいろいろありますけど、切り取ろうとしている世界の一部によって自分のどういう気持ちを表現したいかなんだな、ということをあらためて認識させられたというのが二つ目の気づきです。

菅原さんは単純に、寂しいなあという気持ちがわいた風景であれば、思いっきり「寂しい!」と感じながら撮れ、と言っています。そうしないと「寂しい!」という感覚は写真には映らないよ、と。おおお、むちゃくちゃわかりやすい。

すいません、なんかむちゃくちゃわかりにくい文章になってしまいましたが、この本、写真に興味のある人に勧めてだいたい感謝されているので、本当にオススメです。僕自身が、この本読んであらためてちゃんとカメラと向き合おう、と思いましたから。

※1:さすがに無責任なので、どこでそう言ってたかを調べてみたら、1986年に出版された吉本隆明との対談本=『音楽機械論』のなかにありました。高校生の時に読んだ本だけど覚えているものですね。この本、吉本隆明と坂本龍一という、今から考えればありえない組み合わせの対談本なんですけど、吉本隆明に「坂本龍一を鋭く批評したものがないか」と問われて「ない」と答えた坂本龍一さんが「どうしてですかね。耳のいい人がいないんじゃないですか、音楽評論家で。つまり、ちゃんと聴いてないんじゃないですか。皆二流なんです。ほとんど音楽家になれなかった人が評論家やってたり、ぜんぜんモチーフとかがないんじゃないかしらね」と返しているのが原典ということになります。





Monday, March 14, 2016

0081 世界名言集 岩波書店 ★★


本書は、名著・古典の宝庫である岩波文庫の中から、きわめつけの名言や名セリフを抜粋し、それらを内容のカテゴリーごとに再編集してまとめたものです。ものすごく上等な製本で、昔の百科事典のような装丁になっています。


名言集というと世界的にはバートレットの世界名言辞典が有名ですが、あちらが本当の意味で辞典的な利用目的のために編纂されているのに対して、本書はそうではなく、そのまま「はじめに」から文章を抜粋すれば「岩波文庫という古典の宝庫に多くの人を誘いたい。そのためには原典そのものから喚起力のある章句を切り出して提供したらどうか。わずか数行であってもそれは要約や解説などとは違って、原典の生の魅力を伝えることができるはずだ」という目的のもとに編まれています。

で、いろいろと批判はあるようですが、この編者の目的は十分に達成されていると思います。なぜならかくいう僕自身が、本書で触れた名言をきっかけに原典を読んだということが少なからずあったからです。例えば、こういった名言たちですね。

公共の利益のために仕事をする、などと気取っている人々によって、あまり大きな利益が実現された例を私はまったく知らない。
アダム・スミス『国富論』

知ることがむつかしいのではない。いかにその知っていることに身を処するかがむつかしいのだ。 
司馬遷『史記列伝』

人が事実を用いて科学を作るのは、石を用いて家を造るようなものである。事実の集積が科学でないことは、石の集積が家でないのと同様である。 
ポアンカレ『科学と仮説』

勇気と節操をもっている人たちは、ほかの人たちからみると、いつだって非常にきみのわるいものさ。 
ヘルマン・ヘッセ『ダミアン』

「これがどん底だ」などと言っていられる間は、どん底にはなっていないのだ。
シェイクスピア『リア王』

・・・そろそろ止めておきますけど、本当に、このようなごくごく短い抜粋が延々と紹介されている本です。本の作り自体がそうなっているので、どこから読んでもいいし、どこで止めてもいいという、寝る前とか、まとまった量の文章を読み気持ちになれないとか、そういう時に読むのに最適な本ですよね。こんな感じです。


ではあらためて、ビジネスパーソンが名言集を読むことにどんな効用があるのかと考えてみると、大きく二つあると思います。

一つ目は、かくも短くて簡潔であるにもかかわらず、多くの人のこころを突き刺さって抜けない言葉に触れることで、そういう言葉を自分でも編み出すための源にできるということです。多量の和歌を知らなければ、良い和歌をかけないし、多量の楽曲を分析しなければ良い音楽は書けません。よく勘違いされていることですが、創造性は生まれつきの才能よりも、努力によって蓄積したデータ量によって左右されます。だから同様に「刺さる言葉」をつくるためには、刺さる名言をたくさん知っていなければならない。

じゃあ「刺さる言葉」を自分で作れることの意味合いは何かというと、これはそのままリーダーシップクオリティにつながってくることになります。この点について僕はいろんなところで話していますが「リーダーシップというのは言葉=レトリック」ですから、人を動かすような簡潔でシャープな言葉を作り出す能力というのは、とても大事なんです。

この点、つまり「リーダーシップと言葉」の関係について考えた時に思い浮かぶのがウィンストン・チャーチルです。BBCが2002年に調査した「最も偉大な英国人」で一位に選ばられる等、未だにものすごく人気のある政治家ですけれども、しばしば言及されるのが彼独特の「言葉の力」です。

ナチス第三帝国に対して弱腰な態度をとり続ける英仏を鼓舞するために行ったラジオ演説「我々は決して降伏しない」をきっかけにして英国はナチスと徹底的に戦う覚悟を固めましたし、これは演説ではありませんが東西冷戦を象徴する言葉である「鉄のカーテン」もまたチャーチルの演説が元になっていますよね。

では、そのチャーチルがどんな風に名言を蓄えていったか?チャーチルは大変な読書家だったそうですが、常に肌身離さずに読んでいたのがバートレットの名言辞典でした。この名言辞典をパラパラとめくりながら「刺さる表現」のネタを集めていたんですね。というわけで、まとめれば、人に影響を与えるためには「刺さる言葉」を自分で作らないといけないわけで、その能力は「刺さる言葉をどれだけ知っているか」という量の関数になるわけですから、そういうネタを集めるためにこういう本を折に触れて読んで「ネタ探しする」のは最も効率がいいアプローチだということです。

二つ目は単純に、名言というのは「知恵の結晶」といえるわけですから、その名言を集めた本書は「知恵の宝庫」だということです。しかもその分野は、文学、哲学、自然科学、戯曲、経済学、国学と多くの領域を横断している。こういった多ジャンルにまたがった珠玉の名著から、きわめつけの一文を抜き出して集めているわけで、ある意味で「人間と世界についての認識」について究極の知性のエッセンスが煮詰められていると言えるでしょう。ビジネスが常に「人」と「世界」への働きかけであることを考えれば、両者についての究極の知恵のエッセンスを煮詰めたと言える本書のような本が、ビジネスパーソンに取って有意義でないわけがないと思うんですよね。

岩波書店の世界名言集、いかがでしょうか?

Tuesday, March 8, 2016

0080 美学対実利 西田宗千佳 ★★★


本書は、80年代後半から90年代前半にかけて業界を支配していた任天堂=ファミコン帝国に対して戦いを挑んだ久夛良木氏とそのチームの戦いぶりを記録したドキュメントです。

プレイステーションの累計出荷台数が一億台を超えた今となっては、ソニーの近年のヒット作といえば真っ先にプレイステーションが思い浮かびますが、考えてみれば当時のソニーは全くゲームとは縁のない会社だったわけで、そのような会社が、長いこと巨人に牛耳られていた市場に殴り込みをかけたわけです。

で、本書を読むと、いかに久夛良木氏が戦略的に「絶対に勝てる」という確信を持って参入したかがよくわかります。本書には久夛良木さん自身の声も久夛良木チームの合宿の時のやり取りもたくさん紹介されているのですが、それらを読んでみると本当に戦略コンサルティングファームで行われているようなトップダウンの議論そのものなんですよね。

プレイステーションを開発するにあたって、久夛良木さんは「計算で世界を生成する」というビジョンを打ち出します。ゲームの中で描かれる世界観を全て演算で描き出そうということです。例えばレースゲームにおける自動車の動きや格闘ゲームにおける人体の動き、それらの背景で風にそよぐ木の枝や波立つ池、そういったものを全て演算に基づくCGで表現するということをブチ上げたわけです。

僕は素人なんで、それがどんなに難しいことなのかについての皮膚感覚がないんですが、このビジョンを言い出した時のメンバーのシラケた反応を読むと、それがいかに技術的・コスト的に難しいことだったのかがよくわかります。一様に「いくらなんでもそれは無理ですよ」というのがメンバーの反応なんですよね。それに対して久夛良木氏は「ではどうして無理なのか、具体的な理由を挙げてもらえますか?」とやりかえして、そこから全てが始まっていくわけです。

例えば面白いのがコストの問題です。プレイステーションに搭載されているCG描画エンジンは、開発当時、一枚につき数百万〜一千万円もしたので、これを数万円のゲーム機に搭載したいと言い出しした久夛良木さんのことをメンバーが「狂ってる」と思ったのも無理はありません。でも久夛良木さんは涼しい顔で「簡単なことです。数を出せばいいんですよ」と。

開発に百億円かかったチップを千個のオーダーで売れば、単価は一千万円単位になります。しかしこれを百万台売るとしたらどうか?チップの価格は一万円まで下がる。十分に家庭用ゲーム機への搭載を検討できるレベルです。まあこの計算は変動費を含めていないのですが、千個と百万個では経済性が全く異なる世界になることはわかるでしょう。

「いくぜ!百万台」。これが初代プレイステーション発売時の広告コピーでした。大量のGRPを投下したので覚えている人も多いでしょう。これ、考えてみればコピーになっていないですよねえ。だって顧客にとって意味のあるメッセージになっていないですから。マーケティング論のおさらいになりますけど、メーカーが顧客に届けられるメッセージのタイプは
  1. 属性 
  2. 機能
  3. 便益
  4. 情緒
の四つしかありません。例えばゲーム機の場合であれば
  1. 属性=5テラフロップスのCPUを搭載
  2. 機能=ハリウッド映画並みのCG生成が可能
  3. 便益=実写と見紛う大迫力の映像
  4. 情緒=クールな外観やソニーというブランドのイメージ
ということになるわけですが、「いくぜ百万台!」は上記のどれにも当てはまりません。では、一体このメッセージはなんだったのか?結局のところ、百万台売らなければ利益が出ないから頑張るぞ!というインナー向けの覚悟宣言だったんですね。チップを百万台購入することに契約した当時のCFO=最高財務責任者のコメントも載っているのですが、サインの際は「手が震えた」そうです。

ゲームを題材にした競争戦略のケースは本当に面白い。なぜ面白いかというと外部性が働くからです。ゲームの場合、たくさんの人が使えば使うほどソフトの数も多くなるし、友達と交換できるソフトも増えるので、一度ユーザーをつかんだゲーム機の市場をひっくり返すのはとても難しいんですよね。でもプレイステーションはそれを鮮やかにやってのけた。つくづく、明快な勝ち筋のある戦略コンセプトと、そのコンセプトからブラさない製造とマーケティングというのが大事なんだな、ということを感じさせられるケースです。


ちなみに外部性と競争戦略という観点では、山田英夫先生の『逆転の競争戦略』も面白いですよ。外部性が働く商材、ファックスとかワープロとかゲームを取り上げて、一度支配的になったプレイヤーがひっくり返された事例を集めて分析している本です。おすすめ。

Sunday, March 6, 2016

0079 コンピュータが仕事を奪う 新井紀子 ★★★


本書が出版されたのは2010年のことです。ここ最近は本書がとり扱っているテーマ、つまり「人工知能と人間の仕事の奪い合い」という問題について書かれた書籍や雑誌もずいぶんと見かけるようになりましたが、六年前に出版された本書のほうが、類書と比較しても腹落ち感はあると思います。いまこの原稿を書いている2016年3月時点では絶版になってしまっているようですが、こんなに面白くて有意義な本がなぜ売れないのか、まったく不思議です。

著者の新井紀子さんは数理論理学を専門とする数学者です。本書と類書の質的な違いは、一にも二にも「数学者が書いている」という点によっていると思います。人工知能脅威論をテーマにした本はたくさんありますけど、根本的な計算機科学の原理までさかのぼって「人工知能とは何か?何が得意で何が不得意なのか、そしてそれはなぜなのか?」を掘り下げて説明している本ってあんまりないと思うんですよね。知っている方がいたらぜひコメントください。ちなみに新井紀子先生は、人工知能「東ロボ君」を東大に合格させるという「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトのリーダーでもあります。

産業革命のときに起こったラッダイト運動を持ち出すまでもなく、新しいテクノロジーが普及し始めると、一種のヒステリーのような脅威論が横行することになります。日本でも明治時代に電線を引き始めたとき、電線を伝ってサルがやってきて街を荒らすみたいなことが真面目に心配されてしましたけれども、気分に流されたこういう脅威論は、「ではどうすればいいのか」という対応策につながりません。

この点について僕はいろんなところで話していますけど、自分をひとつの事業体として考えてみるとわかりやすい。「仕事が奪われる」ということは労働市場に人工知能という新たな競合が登場するということです。これは「代替品の脅威」あるいは「新規参入の脅威」ということにですから、競争戦略の枠組みを持ち出してこれを考えてみれば、人工知能は何が得意で、何が不得意なのかをまずは理解しないと対応策の立てようがないということになります。

しかも、ここがポイントなんですけど、その理解は「原理に基づく」ものになっていないといけません。なぜかというと、人工知能の「得意、不得意」を現時点のパフォーマンスに基づいて表面的に理解しても、将来の見通しは得られないからです。

僕は45歳なんで、あと十年くらいは労働市場から退出しないと思いますが、これくらいの時間軸であれば人工知能の労働市場での競争力がどんどん高まっても、まあ逃げ切れるかなあと思っています。問題は僕たちの子供たちの世代です。彼らはあと五十年くらいは労働市場から逃げられないわけで、超絶進化した人工知能と労働市場で真っ向から対決することになります。そういう彼らに対して教育を与える義務を負っている立場としては、彼らの敵が何を得意として何を不得意とするのかについて、原理的な理解をしておいたほうがいいと思うんですよね。

新井先生は本書の中で「すべての人は、コンピューターを奴隷にする人とコンピューターの奴隷になる人の二つに分類されるようになる」と予言していて、ある意味では「救いのない」結論になっています。ちなみに新井先生は、子供にパソコンの使い方を教えるなんていうのは、コンピューターの奴隷になる訓練を子供時代からさせているようなものだ、として愚の骨頂だといっています。主張の是非はともかくとして、人工知能というものがいったいどういう原理に成り立っているのか、その原理ゆえに何が得意で何が不得意なのか、を噛み砕いて理解できる、とても良い本だと思います。

Saturday, March 5, 2016

0078 ディズニーランドが日本に来た! 馬場康夫 ★★


この本は大きく二部構成になっています。

前半は、ディズニーランドを御殿場の富士スピードウェイ近辺に招聘しようという三菱グループと、浦安埋立地に招聘しようという三井グループのプレゼン合戦の模様についての物語。後半は、三井グループのプレゼンを取り仕切った電通の堀貞一郎の「人と仕事」についての物語となっています。

三菱と三井のプレゼン合戦については、結果的にどちらが勝ったかを僕らは知っているわけですが、ディズニー幹部が日本にディズニーランドを作ることを検討していた1974年の時点では、早くからディズニーグループに対してモーションをかけていた三菱グループが、三井グループに一歩も二歩も先んじていました。その不利な状況を、どうやってひっくり返すか。そのために三井グループが仕込んだ数々の仕掛けが、前半の読みどころです。

このプレゼン合戦、結局は三井グループ+電通の圧勝に終わるのですが、それがどれくらい「圧倒的」だったのか、1974年に両者のプレゼンを受けるために来日したディズニー幹部側の行動スケジュールを確認してみるとよくわかります。

ディズニー幹部側の元々のスケジュールはこうでした。
12月1日 ディズニー経営陣来日
12月2日 各地に表敬訪問
12月3日 三菱グループのプレゼン一回目
12月4日 三井グループのプレゼン一回目
12月5日 三菱グループのプレゼン二回目
12月6日 三井グループのプレゼン二回目
後日、プランを検討し、最終決定。

ところが実際はどうであったか。なんとディズニー経営陣は4日の三井グループの一回目のプレゼンを受けたその場で三井と組むことを意思決定し、三菱グループの二回目のプレゼンは「聞く必要がない」とキャンセルされたのです。なんという屈辱・・・。

このとき、三井側のプレゼンテーションの指揮をとったのは当時45歳だった電通の堀貞一郎です。この堀さんという人が一筋縄ではいかないというか、本当にスゴイ人だったんだなあと思わせるエピソードがテンコ盛りで、本書の後半のエッセンスはこの堀さんの仕事術といっていいでしょう。

ディズニー経営陣は当然のことながら日本語を話せません。一方で堀さんは英語ができない。ということで、事前のリハーサルでは堀さんが日本語で計画を説明し、英語に堪能な京成トラベルの社員が通訳するはずだったのですが、プレゼンに先立ったディズニー会長テータム氏の「本来であれば我々が日本語を勉強してから来るべきところを申し訳ない」というお詫びに閃いた堀さんは、リハーサルを無視して、日本語に加えた身振り手振りでプレゼンを始めてしまいます。そのプレゼンのわかりやすさに感銘を受けたテータム会長は、わざわざ堀さんのプレゼンを一度止めさせ「日本語を勉強してから来るべきだったと言ったが訂正する。ミスターホリ、あなたの日本語はよくわかる」と感想を述べています。

堀さんの「しゃべり」は一種の芸術と言える領域にあったようです。1965年に始まって1990年に終了した日本テレビ系列の深夜番組「11PM」に映画紹介のコーナーがあったのですが、このコーナーを長らく担当したのも堀さんで、理由は「早い場面展開に合わせて話せる人が誰もいなかった」からだというんですね。

あるいは東京ディズニーランドのホーンテッドマンションの入り口に、天井の伸びる部屋がありますよね。あの部屋で流れる「部屋が伸びているのか、それとも諸君が縮んでいるのか・・・」というナレーションも堀さんの声なんです。このナレーションを吹き込むにあたっては、名のある俳優・声優を集めたオーディションが行われたのですが、どれもしっくりこないと悩んでいたディズニーの遊園地担当副社長のディック・ヌニス氏が「これ!この声だ!」と最終的に選んだのは、どの俳優の声でもなく、堀さんがインストラクション用に吹き込んだデモテープだったらしいんですね。

これで思い出したボイストーンという話です。2020年のオリンピックが東京に決まって日本中が沸き立ったのが数年前のこと。この時、IOCに招致のプレゼンを行ったチームのメンバーは世界最高と言われるプレゼンテーションのコーチを受けたそうです。で、これはそのメンバーの一人だった杉山恒太郎さんから聞いたんですけど、その際にコーチから徹底的に言われたのが「Find your own voice tone=あなたの声を見つけなさい」ということだったそうなんですね。

身振りでも流暢な話しぶりでも表情でもない、本当に強いプレゼンをしたければ「自分の声」を見つけろ、と。人にはそれぞれの「人の心に届く声のトーン」がある、それを見つけなさい、というアドバイスです。堀さんという人は、この「人の心に届く自分の声」を自分で見つけていたんだろうなあ、と。

すいません、思い入れがものすごくある本なので話がとっちらかってきましたが、いずれにせよ、企画をプランし、それを競合プレゼンテーションとして提案するということにある程度関わらなければならないという立場の人であれば、本書はいろんな刺激を与えてくれることと思います。

0068 本質を見抜く「考え方」 中西輝政 ★★★


著者の中西輝政先生は国際政治学者、歴史学者で歴代内閣のブレーンもつとめてきた方です。専門は欧州の外交史で、先生の著作を読んでいると外交上の駆け引きをベンチマークして得られた知恵がたくさん出てきます。

本書は、著者の中西輝政先生が、研究生活の中で培ってきた「一見もっともらしく見える他人の判断や見解に惑わされることなく、自分の力で考える」ためのエッセンスを、53にまとめて紹介している本です。この53のエッセンスが、どれもせいぜい2〜3ページに簡潔にまとまっているのですが、本当に示唆深いのです。僕は2014年に『外資系コンサルの知的生産術』という本を出しているんですが、そのうちのかなり部分が中西先生の受け売りになっています。例えば、

考え方02 敵をはっきりさせる
考え方04 必ず言葉にしてみる
考え方05 自分なりの仮説を立てる
考え方07 最初に得た直感を思い返す
考え方10 動あれば反動あり
考え方20 逆説を愛する
考え方39 ふと浮かんだ疑問を封じ込めない
考え方41 論理の正しさに惑わされない
考え方44 全員一致はまず間違いと心得る

などは、ほぼそのまま中西先生の主張を繰り返しています。 

浅薄な思考スキルの本ではありませんから、読んですぐに明日の仕事から活かせるというようなものを期待してるとがっかりします。むしろ、中には「宙ぶらりんに耐えろ」とか「世と人は元来うまくいかない」といった、身も蓋もない指摘もあって、じゃあどうしろって言うんだよと思わないでもないわけですが、一方で、こういう諦めこそが一つの教養なんだと考えると、滋味が出てくるように思います。

自分の力で考える、自分の意見を持つということについて問題意識を持っている方であれば、きっと多くの洞察が得られると思いますよ。


0049 新幹線を作った男 島秀雄物語 高橋団吉 ★★★


題名にも出ている島秀雄氏は、国鉄の技師長として新幹線計画の起案から実現まで、中心的な役割を果たした人物です。この本は、その島秀雄氏の人生を縦糸に、蒸気から電気へと進化していく鉄道の歴史を横糸に描かれた、新幹線誕生の絵巻物です。

考えてみれば、これほどまでに巨大なプロジェクトというのは、日本の歴史上でも類を見ないのではないでしょうか?東京=大阪間に敷かれた専用線路を時速二百キロで走る鉄道サービスを事業化するというのは、その計画を前にして立つ人を途方に暮れさせるような巨大さがあります。いったい何から手をつけようか・・・と思いますよね。

本書は、その巨大なプロジェクトがどのようにして立ち上がって、いろいろな困難を乗り越えながら成就していくか、をとても丁寧に書き起こしています。筆致は淡々としていて、プロジェクトXのような押し付けがましさや暑苦しさはありません。なんというか、一陣の風が吹き抜けるような、そういう爽やかな読後感を残すドキュメントになっています。

多くのビジネスパーソンにとって、新幹線プロジェクトの経緯を知ることは、トリビアに過ぎないと思われるかも知れません。でも僕は、本書の中には、今の閉塞した日本の状況を打破するためのヒントが、満載されていると思うんですよね。一般に、日本人はあまりイノベーションに向いていないと考えられています。ここ二十年くらい、世界を席巻するような商品やサービスが生まれていないこともあって、まあ仕方ないかという気もするのですが、この本を読むと、決してそんなことはないと改めて思わされるんですよね。

東海道新幹線が開業したのは1964年のことです。同様のコンセプトでこれに続いたフランスのTGVが開業したのは1981年ですから、新幹線に遅れること17年後のことで、他の欧米諸国はそこからさらに数年〜十数年遅れて続くことになります。つまり欧米先進国でも追随するのに二十年近くの時間を要するようなイノベーションをやってのけたわけです。東海道新幹線の事業化にあたって、日本が蓄えたノウハウがどのくらい先進的なものであったか。本書を読むと、NASAの技術者が、東海道新幹線の開発で採用されたシステム計画手法をアポロ計画設計のためにベンチマークした、というエピソードが紹介されています。つくづく、本当にスゴイことをやったんだな、と感服させられます。

通読して思うのは、このように巨大なイノベーションの実現にあたっては、技術的側面の問題解決以上に、人と組織の問題が大きいということです。もう本当に、ロールプレイングゲームのように、次から次へと敵が現れては計画を頓挫させようとする。たとえば、作家の阿川弘之は、エジプトのピラミッド、万里の長城、戦艦大和という世界三バカに続く、四つ目のバカが東海道新幹線だと新聞に発表し、東海道新幹線建設反対の世論を巻き起こしました。ちなみに他の二つはともかくとして、エジプトのピラミッドには治水の側面から合理的な理由があったわけで(※1参照)、それを知識のなさから「バカ」と短兵急に断じていること自体が「真正バカ」の証拠なんですけど、それはともかくとして、とにかくそういう「空気」が巻き起こったということです。

僕は常々、イノベーションの効用を見出せるのはごく少数のビジョナリーだけであって、ほとんどの人はイノベーションの可能性を見出すことはできない、と言っていますが、東海道新幹線が我が国にもたらすインパクトを、正確に見抜いていたのは島秀雄を中心にした、ごく少数の人でしかなかったんです。この本を読むと、イノベーションを起こすにあたってどのような組織的な難しさがあるかということを痛感させられます。

その難しさは、国会と渡り合って建設資金の目処をつけたプロジェクト最大のスポンサーであった当時の国鉄総裁の十河信二氏が、結果的には東海道新幹線の開業を待たずに失脚させられていることからも感じられます。イノベーションは綺麗事では起こせない、死人が出ることを覚悟できないとやっぱり難しい、ということが本書を読むとよくわかります。

読んで血湧き肉躍るような面白さがあり、工学的な解説もあって知的好奇心は満腹に満たされ、イノベーションを実現するにあたって組織・人の難しさについても数々の洞察が得られる。こんな「一粒で何度でも美味しい」本はめったにあるもんじゃありません。

※1:エジプトのピラミッドは全てナイル川の西側にあることをご存じでしたか?その理由についてはこちらをどうぞ。
http://www2.otani.ac.jp/~tmatsu/2002bunka/0012153/daisansyou.html



0076 ハーメルンの笛吹き男 阿部謹也 ★


グリム童話の「ハーメルンの笛吹き男」は覚えていますか?

ネズミに悩まされていたハーメルンの人々は、どこからともなくやってきた笛吹き男に報酬を約束してネズミ退治を頼みます。笛吹き男が笛を吹きながら街を練り歩くと、不思議なことに家々からネズミが出てきて笛吹き男の後をついていきます。笛吹き男は街を一巡りしてからネズミを引き連れて川に入り、ネズミを溺れさせます。ネズミを退治した笛吹き男は約束の報酬を求めますが、街の人々は報酬を支払うことを拒否し、笛吹き男は怒って街を出て行きます。そして一年後、恐ろしい形相をした笛吹き男が再び現れ、同じように笛を吹きながら街を歩くと、子供達が笛吹き男の後について村はずれの山奥まで行き、そこで忽然と姿を消してしまう。

評伝によっては、そのあとで「盲目の子」と「聾唖の子」だけが助かって帰ってきたとなっていますが、まあ大体そういう話です。この童話に初めて接したのはおそらく幼稚園の頃だと思いますが、描かれている笛吹き男の形相が怪人二十面相風にむちゃくちゃ怖かったことをよく覚えています。子供時代にこの童話に接した人の多くは、この物語の背後になにか得体の知れない恐ろしさ、凶々しいものがあることを感じたのではないでしょうか。

本書は、この世界中で親しまれている童話が、かなりの程度歴史的な事実であったということを明らかにした上で、この「事件」の真相は、一体どのようなものだったのだろうかということを中世の社会構造に立脚点を置いて考察している本です。

著者の阿部謹也先生は中世ドイツを専門にする歴史学者で一橋大学の学長まで務められた方です。ちなみに僕は阿部謹也先生の本が大好きで、ライプニッツ!でもおいおい阿部先生の本を紹介していきたいと思います。ま、それはともかくとして・・・

面白いなあと思うのが、著者である阿部謹也先生が、ハーメルンの笛吹き男に関する記録を古文書から偶然に発見するシーンです。阿部先生は、何か別の調査のために古い修道院の文書を読んでいたらしいのですが、その中に偶然「1284年のヨハネとパウロの日、6月26日に130人のハーメルンの子供達が街から連れ去られた」という記録を見つけたんですね。それからもとの研究はそっちのけになってしまって、とにかく想像の翼を広げながら、この1284年の6月26日にハーメルンの街で一体何が起こったのか?という真相解明に向けて、様々なリサーチが行われて、本書はそのリサーチの集大成ということになります。

で結論はどうなのかというと、ネタバレになりますが、率直に言えば「よくわからない」ということになります。この伝説は世界中の歴史学者の好奇心をそそるらしく、本当にいろんな説が出されていて、それぞれの論拠についての説明もあるのですが、僕は個人的にどれもしっくりきませんでした。これは聖書のイエス復活の下りもそうなんですが、この話をよくあるアレゴリーとして整理してしまうのはおかしいと思うんです。だったら直裁にそう書けば言い訳で、なにかしっくりこないんですよね。

分かりやすい推理小説的な謎解きを期待していると消化不良の感覚が残るかも知れませんが、謎は謎としてそのままにしておくというのも一つのスタンスかと。歴史好きにはたまらない一冊かと思います。


Friday, March 4, 2016

0072 約束された場所へ 村上春樹 ★★


本書は、作家の村上春樹さんが、オウム真理教の信者、あるいは元信者に対しておこなったインタビューを集めたものです。本書が出版されたのが1998年で、地下鉄サリン事件が起きたのが1995年ですから、このインタビューは「事件を引き起こしたのがオウム真理教である」という事実認識のもとに行われています。このタイミングがミソですよね、なんといってもあれだけの事件を起こした組織のメンバー(あるいは元メンバー)だという自負を全員が持っている状況で行われているのですから。

村上春樹さんという個人の考えや価値観は、この本の中にほとんど立ち現れてきません。というよりもむしろ、消え去ることに最大限の努力を払っているようにさえ見えます。インタビュアーはもちろん村上さん本人がやっているわけですから、おそらく意図的なんだと思いますが、ごくごく淡々と質問しているだけです。これはある意味ですごいことだと思うんですよね。先述した通り、このインタビューは地下鉄サリン事件の真犯人がオウム真理教であるという事実認識のもとに行われているわけですから、村上さんは、当のインタビューの相手がその殺人教団の信者であることをわかってやっているわけで、なかには教団を擁護して社会やマスコミを非難するインタビュイーもいるのですが、そういう意見に対しても反論するわけでも賛成するわけでもなく、本当に淡々と受け止めて質問を進めています。

相手の態度はいろいろです。事件を受けてどうして良いかわからずに混乱している人、それでもなおオウム真理教への帰依を続けたいという人、完全に教祖を見限って過去の自分まで含めて否定しようとする人等々。

本書を読むことの意味あいは何かと考えてみれば、なかなか直接には接することのないこういった人たちから、いったいどのような考えでオウム真理教に入信し、場合によっては出家までし、そして事件の報に接して自分の考えを整理しているのか、についてじっくりと話を聴くことができるという、その一点に尽きると思います。これはつまり多様性を知るということです。

養老孟司先生は、教養とは何かと問われて、それは共感する力じゃないでしょうか、と答えています。この世界には自分と同じような人たちばかりがいるわけではない。この単純な事実を知らないとたちどころに周囲に乗り越え難い「バカの壁」が生まれることになります。オウム真理教の犯した罪は裁かれるべきですが、オウム真理教に帰依した人たち全員が全否定されるべきだと考える理由はありません。彼らには、彼らなりの考えがあってそうしたのであって、それをうかがい知ることができる本書は、ある意味では貴重なドキュメントだと言えるのではないでしょうか。

巻末には村上春樹さんと心理学者の河合隼雄先生の対談も掲載されています。この対談もまたとても面白いですよ。



0071 超芸術トマソン 赤瀬川原平 ★★


初出が1987年ですから、もう30年も前の本なんですけど、今読んでもお腹が痛くなるくらいに笑わせてくれます。

超芸術トマソン。なんとも絶妙に間の抜けた書名ですが、一体何に関する本だといぶかしく思うでしょう。本書の内容をそのまま説明すれば、主に家屋やビルなどの不動産物件に付属し、まるで保存・展示されているかのように美しい佇まいを見せる完全に無用のモノをトマソンと名付けて写真に残し、紹介しているという、ただそれだけの本です。

記念すべきトマソン第一号 四谷で発見された「純粋階段」

しかし、なぜ「トマソン」なのか。語源は当時、ドジャースから高額の契約金でジャイアンツに移籍したものの、三振ばかりで「扇風機」とあだ名されていた外国人ゲーリー・トマソン選手に由来します。そんなトマソン選手を見て赤瀬川先生は「立派なボディがあるのに世の中の役に立つ機能というものがない。シュールな生きた芸術品であり、超芸術としか言いようがない」と感動したそうで、同様に「立派なボディがあるのに役に立つ機能がない」不動産物件をトマソンと命名することにしたようです。本人が聞いたら激怒するでしょうね。

赤瀬川先生のトマソンへの想いはひとかたならぬものがあります。先生は「トマソン選手のバットはグリップが手垢で汚れているのに、ボールが当たるべき先端部は真っ白という無用の長物であり、トマソン選手本人のみならず、彼のバットもまたトマソン体である」と絶賛を惜しみません。また、かように役立たずのトマソン選手を、高額の費用をかけて大切に保存し、四番バッターとして展示し続ける巨人軍の態度を、真に素晴らしい芸術スポンサーの理想として賛美しています。

赤瀬川先生はこう呼びかけます。トマソン体は世の中の役に立っていないため、いつ撤去されるかわからない。したがって、トマソン研究者=トマソニアンは、トマソン体の発見に勤しみ、発見し次第、映像などの手段で性質を保存し、他人に伝える努力をしなければならない、と。

くぐるためだけのトンネル「純粋トンネル」

実際、この赤瀬川先生の警鐘は、シーズン途中にもかかわらず、巨人軍がトマソン選手を解雇したとのニュースで現実のものとなります。先生は「恐れていたことが起きてしまった。超芸術の理念を体現している巨人のトマソン選手が、このたび撤去され、ゴミとしてアメリカに捨てられることになった。ボールにバットを当てられないという、たったそれだけの理由で!」と巨人軍の態度を強く非難しています。

ことほどかように内容はナンセンスの連続なんですが、大量に掲載されているトマソン体の写真とそのネーミングが、やっぱりこれはアートだよなあと思わせるんですよね。誰もが毎日見ているはずのものなのに、才能のある人が、あるコンセプトを立ててそれを切り出してきて提示すると、それが人を楽しませるアートやエンタテインメントとして成立してしまう、つまりキュレーションが成り立ってしまうのだということを嫌という程に思い知らされる本です。



0058 オキナ プロジェクトリングノート ★★★


もうここ十年以上にわたって仕事用にメインで使っているオキナのリングノートです。おそらく余程のことがない限り、今後もずっと使い続けるだろうと思います。選択の理由はA4リングノートという形式による部分とこのブランド固有の部分とがあります。列挙すれば、

1:リングノートなので狭い場所ではたたんで使うことが可能
2:方眼が5mmでグラフやチャートのドラフトを書くときに使いやすい
3:方眼が薄めで目にうるさくなく、またコピーには写らない
4:ページがミシン目で切れるので、後でコピーしたりフォルダに入れるのに便利
5:紙質がとてもよく、書き味が素晴らしい
6:シンプルで飽きのこないデザイン

といったあたりでしょうか。

打ち合わせのメモはこのノートでとって、打ち合わせが終わった後は、ページをミシン目で切って、クライアントXプロジェクトごとに作成しているフォルダに放り込んでおきます。一年に三冊程度のペースでノートを消化していくので、例えば「一昨年にやったあのプロジェクトの時のメモ」を探し出そうとすると、ものすごく時間がかかるんです。

こういう使い方をしているので、複数のプロジェクトに関するメモを同一ページ内に作成しない、という鉄則を守っています。日付とクライアントのコードをページ上に入れたら、どんなにページの使用量が少なくても、次の打ち合わせでは新しいページを使うということですね。

あと、打ち合わせのメモではなく、構想のイメージを膨らませるためのマインドマップを作成するときは、同社が出しているA3のシートを用いることもあります。


これは『外資系コンサルの知的生産術』でも指摘したことですが、思考する際はとにかく「紙に書き出してみること」が重要だと思っています。最近読んだ本の一つに、原研哉さんが企画・構成された『SUBTLE』という本があるのですが、この本の中で数学者の森田真生さんが同様のことを指摘していますね。

SUBTLE 株式会社竹尾編 原研哉+日本デザインセンター原デザイン研究所企画・構成

紙に書くという行為で大切なのは、書いたものを見ることで考えが変わったり、紙と対話したりすることにあると思うんです。ただの記録媒体ではなくて、自分の内側を一旦出して、自分の声を外から聞くようなプロセス。それはすごく大きな変化だったという気がしますね。時々紙を使わずに計算することがありますが、その時にも僕の頭の中には紙らしきものが存在します。そのくらい紙は身体化されているんですね。(p162より)

何らかの形で知的生産に関わっている人にとって、ノートは「職人の道具」ということになります。これだ!という定番をまだ持っていないという方であれば、一度オキナのノートを試してみてはいかがでしょうか。

0059 アースダイバー 中沢新一 ★★★


著者の中沢新一さんは文化人類学者、宗教学者ですが、本書の内容そのものは、どちらのカテゴリーにも整理できないように思います。何とも説明の難しい本なんですが、内容をそのまままとめれば、縄文時代の地図を現在の東京の地図に重ね合わせて東京を散歩してみたら、いろんなことを気づいたり考えさせられたりしたので、それを本にしてみました、ということになるかと思います。

で、散歩してみるとどんなことを気づいたり考えたりしたのか。個人的に最も印象に残ったのが、縄文時代の地形によって土地の性格をある程度整理できるとする仮説です。すなわち、縄文時代に海の底だった場所は、ウェットで人の欲望を喚起するような場所が多く、縄文時代に丘だった場所は、高級住宅地や宮家の敷地になっていることが多く、縄文時代に岬など「海と陸の境目」だった場所は、墓場や宗教施設になっていることが多い、という指摘です。

確かにその通りで、縄文時代に海の底だった渋谷や赤坂は風俗街・繁華街になっているし、高地であった青山や高輪は高級住宅地や宮家の敷地になっていて、両者の境目であった大門や増上寺のあたりはお墓とお寺ばっかりなんですよね。

でですね、僕はこの切り口の鮮やかさにやられてしまったんですよね。対象を分析するには「分ける」「折る」ための切り口が必要になります。東京という抽象的な都市像を理解したければ、対象を何らかの切り口で分けないといけません。通常、その切り口は、区などの行政区分であったり、住民の所得や年齢の分布であったり、地価の分布だったり、繁華街と住宅街といった土地の性格だったりするわけですが、ここに「縄文時代に海の底だった場所、丘だった場所、岬だった場所」という切り口を持ち出して、その切り口で整理してみると、土地の性格がある程度わかんだよねというのは、むちゃくちゃ知的に面白いと思うんですよね。僕だけなのかなあ、こんなに感動しているのは。

ああ、もう一人いますね。それは当の著者である中沢先生本人です。縄文時代の土地の位相で現在の東京を整理すると、その土地の性格がわかるという仮説に、本人自身もびっくりしたようで、エピローグにはこんなことを書いています。

どうして渋谷や秋葉原はこんなにラジカルな人間性の変容を許容するような街に成長してしまったのか、猥雑な部分を抱えながら新宿がこれほどのバランス感覚を保ちつづけていられるのはなぜか、銀座と新橋はひとつながりの場所にあるのに、それぞれが受け入れようとしている人々の欲望の性質がこんなにもちがうのはなぜか、などなど、東京に暮らしながら日頃抱きつづけてきた疑問の多くが、手製のこの地図をながめていると、するすると氷解していくように感じられるのだから、ますます不思議な思いがしたものである。

要するにこの仮説を思いついた中沢先生自身もびっくりしているんですよね。作曲や発明の世界では、本当にすごいインスピレーションは自分で作ったアイデアという感じがしない、何か与えられたような不思議な感じがするとよく言われますが、すごい仮説というのもまたそういう性格があるのかもしれません。

ちなみに「アースダイバー」という本書の題名はは、世界が一面の水に覆われていたという原初の時代、水底に潜って「新しい世界」の大地の元になるわずかな泥土を持ってきたという、アメリカ先住民の潜水鳥神話に基づいているそうです。

人間の脳は膨大な酸素を消費するために、できる限り認知や知覚を自動化するようにプログラムされています。しかし、慣れ親しんだ日常への知覚が自動化されてしまえば、知的生産につながる新たな気づきは得られない。必要なのは、普段何気なく暮らしている周囲の環境を、一度突き放して対称化してみるということです。ソ連の文学理論家であるヴィクトル・シクロフスキーは、日常的になれ親んだものを奇異なものとして提示し、怠惰になりがちな知覚を叱咤するような表現手法として「異化」というコンセプトを提唱しました。中沢先生自身は全く意図してないと思いますが、この本は東京という都市を「異化」しているんだよなあ、と思うのですよね。


強くお勧めします。

0062 羆嵐 吉村昭 ★★★


本書は、大正4年に北海道三毛別の開拓村で実際に起きた羆による襲撃事件を描いた小説です。一週間の間に七名が犠牲となるという、世界的にも類を見ない凄惨な事故で、最終的には軍隊まで出動する騒ぎとなります。これは本書だけでなく、吉村昭の小説全般に言えることですけれども、筆致は淡々としているのに、描かれている状況はモノスゴイという、そのギャップがとんでもなく大きい小説です。村の警護隊が、襲われたと思しき小屋に近づいていくと、中からガリガリボキボキと音がする・・・そこでみんな気がつくわけです、羆が人を齧っていると。こう言う描写がレイモンド・チャンドラーもかくやというハードボイルド風な乾いた筆致で描かれていきます。

本書を読んで考えさせられるのが「個人と組織」という問題です。先述した通り、この事故では報告を受けた当局が最終的に陸軍を派遣するんですけど、この軍隊がからっきし役に立たないんですよね。最初は威勢が良かったものの、実際に羆が軍隊に向かって突進してくると、みんな逃げちゃうんです。気持ちはわかりますよね・・・この羆は身長が3メートル近くあったそうで、そんなものが時速五十キロで突進してくるのをみれば誰だって身がすくむでしょう。

結局、この羆を仕留めるのは、その粗暴な振る舞いと酒癖の悪さで村民から忌み嫌われていた一人のマタギなんです。村長から直々に熊の退治を依頼されたマタギは、ゴルゴ13かと思わせるような高い代償を要求し、村はそれを受け入れ、契約は成立します。そこからのこのマタギが発揮するプロフェッショナルぶりは本書のクライマックスといえるでしょう。最後の最後、匂いに気付かれぬようにと風下から慎重に熊にアプローチしたマタギが、すっくと立ち上がって目前の羆の心臓に狙いを定めるシーンなんか、読んでいて時が止まっていくような透明感があります。

規律と近代武装を身につけた軍隊が結局は役に立たず、古式なライフルをもった嫌われ者のアウトローが村を救うわけです。最後の最後は「ミッションを自分ごと化している人、俺がヤると思っている人」と、そう思っていない人とでは、決定的な違いが出るんだな、ということを考えさせられました。

あるいはかつてこのような過酷な地で国土開発に人生を捧げた人たちがいたんだなという再認識も含めて、折に触れて何度も読み返したいような滋味のある小説だと思います。

0065 弓と禅 オイゲン・ヘリゲル ★★★


著者のヘリゲルは大正時代の終わり頃に、東北帝国大学から招かれて哲学教授を務めた人物です。エミール・ラスクに師事しているので、系譜としてはいわゆるカント派ということになりますが、本人もカント派の正当な後継者であることを自負していたようです。

本書は、そのヘリゲルが日本滞在中に習った弓術修行の記録です。ヘリゲルに弓術を指南したのは、弓聖と言われた阿波研造です。この修行のプロセスの中で、ヘリゲルは「世界を認識する枠組み」そのものの大転換を経験することになります。ちなみにスティーブ・ジョブズは生涯にわたって本書を愛読したそうです。

ひきしぼった弓によって運動エネルギーを矢に与え、的に当てる。弓術は物理的運動そのものであり、従って的に当てられるかどうかは、この物理的運動をいかに制御できるかにかかっている・・・というのがカント派哲学者であるヘリゲルの考え方で、これは今日の私たちにとっても違和感がありません。

ところが師匠の教えはことごとくそれを否定するわけです。どんなことを教えられているかというと、

あなたは的を狙ってはならない。
そもそも矢を放とうとしてはならない。
あなたが射るのではなく「それ」が射る。
だから「それ」に射させなさい。
笹の葉に積もった雪が自然に落ちるように、矢が手から離れる。

阿波建造の教えに、ヘリゲルは戸惑い、やがてフラストレーションを爆発させて、師匠に食ってかかります。

的に当てるのが弓術である以上、的を狙わなくては当たるわけがない。的を狙わずに的を射るというのであれば、師匠は暗闇の中で的に当てられるのか?

この挑発に阿波建造は乗り、日没後、ヘリゲルと阿波建造は道場に集まります。さあ師匠は本当に真っ暗闇に沈む的を射ることができるか?この体験はヘリゲルにとって衝撃的だったようで、この日を境に、西洋的な論理・思考・言語の限界を突き抜けた先にある「何か」の存在を確信し、悟りに少しずつ近づいていくことになります。

本書には二つのクライマックスがあって、一つ目はこの「真っ暗闇に沈む的を射る」シーン。二つ目は、阿波建造が指導の中でたびたび言及する「それ」が現出するシーンです。

的を射るという囚われの雑念を払って、淡々と「いま、ここ」のプロセスに集中するということを繰り返していたヘリゲルが、ある日、一本の矢を放った際、師匠の阿波建造は居住まいを正し、深々とヘリゲルに対して礼をします。何が起こったのか、ヘリゲルはよくわかりません。阿波建造は、いまの矢は「それ」が射ったのだ、とヘリゲルに悟します。

阿波建造がたびたび言及する「それ」については、僕もよくわかりません。ただ、この箇所を読んでいて、童話の『のんちゃん雲に乗る』を思い出したんですよね。良い子で優等生であることを自負するのんちゃんは、雲の上で出会ったおじいさんから「ひれ伏す心を持たないとといけない」と諭されます。おじいさんのいう、この「ひれ伏す心」というのがどういうものなのか、ずっと気になっているのですが、阿波建造師匠が、「それ」に最敬礼するシーンに、ああこういうことなのかもしれない、と思ったんですよね・・・すみません、全然説明になっていませんが。

現在の僕らは、いわゆる形式論理の世界にがんじがらめにされてしまっていますよね。形式論理はアリストテレス以来、西洋の哲学が追求してきた知性の様式で、ヘリゲルはその最先端を担う人物であることを自他共に認めていました。本書は、そのような人物による「日本的な知性の様式の存在とその畏れ多さ」について書かれている本だと思います。これは西洋では例えばベルクソンが、日本では小林秀雄先生なんかも言っていることで、改めて僕が言うべきことでもありませんが、西洋的合理主義の有用さは理解した上で、それを超えたもの、畏れ多いものがあることを認識しておくこともまた必要なのではないでしょうか。

これまでの人生でたくさんの本を読んできましたけど、本書ほどに魂を揺さぶられるような体験というのはなかなかありません。強くお勧めします。

0047 大人のための偉人伝 木原武一 ★★



偉人伝といえば、子供向けの読み物というのが一般的な認識かと思います。しかし、著者の木原さんは「大人こそ偉人伝を読むべきではないか」と指摘します。僕もその通りだと思います。偉人伝のほとんどは、世のため人のために献身的に尽くしたという生涯の物語ですが、その生き様を知ることで得られる刺激は、無邪気な子供よりもむしろ、そのように生きることがどれほど難しいことなのかを肌身に染みて知っている大人の方が大きいと思うからです。

本書で紹介されているのはシュワイツァー、ヘレン・ケラー、リンカーン、ガンジー、ナイチンゲール、キュリー夫人、エジソン、カーネギー、野口英世、二宮尊徳の十名です。読んでみれば各人のエピソードから色々と考えさせられます。

30歳を過ぎてから医師になる決意をしたシュワイツァー、悪妻に悩まされ続けたリンカーン、極端に内向的で見知らぬ人とは話せなかったガンジー、人脈と政治力を駆使して看護システムを構築したナイチンゲールなどなど・・・・

これは木原武一さんによる『天才の勉強術』でも指摘したことですが、本書の美点として「押し付けがましくない」という点があると思います。子供の時に読まされた偉人伝について、多くの人は「どことはない胡散臭さ」を感じられたのではないでしょうか。少なくとも僕はそうです。説教くさいんですよね・・・何かこう、騙そうとしているんじゃないかと構えさせるようなところが、子供向けの偉人伝にはあったように思います。そういう、詐欺師がニタニタしながらにじり寄ってくるようなところが、本書には全くないんですよね。淡々と偉人のエピソードを記述しながら「これはすごいよね」とまとめてしまっている。この淡々とした感じが、本書を「大人向け」の読み物として成立させていてる最大の美点ではないかと思います。

自分の人生の来し方、これからの行き方について考えない人はいない大人はほとんどいないでしょう。本書は、そのような人にとっていろんな気づきやヒントをあたえてくれる本であると思います。

Thursday, March 3, 2016

0073 日本史の謎は「地形」で解ける 竹村公太郎 ★★★


学生時代に日本史を習っていて、いつも気持ち悪いなあと思っていました。いろんな事件や事象に関する教科書の説明に対して、なんとも腑に落ちない感じがしたからです。

例えば、家康は関ヶ原の勝利後に、なぜすぐに江戸に幕府を作ったのか。家康はもともと三河(愛知県)の出身で、関ヶ原の直前は甲府に城を作ろうとしていました。そういう彼が、なぜ関ヶ原の直後、まだ影響力のある豊臣家と淀君は大阪にいる時期に、江戸に戻って幕府を開く。どうして?と思いますよね。

あるいは信長による比叡山延暦寺の焼き討ちもそうです。あれほどの武力と権力を持っている武将が、なぜ一介の寺を焼き討ちし、皆殺しにまでする必要があったのか?教科書にはそれなりの理由が書いてありましたが、皮膚感覚に照らせば違和感を拭えない、なんか釈然としないなあとずっと思っていたんです。

本書は、こういった「日本史の中における、なんとも理由がよくわからない大きな事件や事象」を取り上げ、それを地形との関係で読み解くとあら不思議、そうせざるを得なかった理由がスルスルとわかりますよ、という本です。先述した家康の江戸開府も信長による比叡山焼き討ちも、地形との関係からそうせざるを得なかったという本書の説明を読むと、なるほど確かにそうだと思わせられます。なかには「?」と思わせるものもないではないのですが、切り込んでいく角度がとても面白い。

例えば家康による江戸開府を取り上げてみましょう。家康が江戸に幕府を開いた当時、関東一円はほとんどが湿地帯で、畑作には全く向かない、劣悪で希望のない土地でした。豊臣家から江戸への転封を命じられた家康は黙ってこれに従いますが、家臣は激昂したと言われています。それほどに酷い土地だったのですが、家康は違う見方をしていたようです。詳しくは本書を読んで欲しいのですが、湿地帯というのが鍵です。湿地帯というのはそこかしこに川が流れているということです。では当時、最も早い通信手段はなんであったか?江戸時代の通信といえば飛脚を思い出しますが、実は一番早いのは運河を通じた連絡なんですよね。と、ここまで書けばなんとなく見えてきますよね。

あるいは信長による延暦寺の焼き討ちもそうです。信長は戦国時代を通じて最も戦略的思考に優れていた人です。そういった人が、教科書に説明してあるような無為な理由のために比叡山を焼き討ちすると考えるのは不自然です。むしろ信長はとても延暦寺を恐れていたと考えるべきでしょう。なぜ?それは京都の地形を考えてみるとわかり易い。京都は四囲を山に囲まれた盆地です。信長のいる安土から京都に上洛するには北東側を囲む山の隘路を抜ける必要があり、そしてその隘路を見下ろす位置にあるのが延暦寺です。

さて信長がその名を全国に知らしめたのは桶狭間の戦いです。この戦いでは兵力二万を数える今川義元の軍勢をはるかに少ない兵数で討ち取ったわけですが、それが可能だったのは桶狭間が文字通り「狭い間」、つまり隘路だったからです。信長は義元の大軍が最も伸びきって兵力が分散する箇所を桶狭間であると判断し、地元の農民を誘導して大量の酒・食べ物を届けさせ、義元は信長の思惑通り田楽狭間で休憩を取らせます。信長は、このタイミングを見計らって側方から奇襲をかけ、今川義元を討ち取ったわけです。そのような信長にとって、京都上洛の際に自分たちが通過せざるを得ない隘路について、どのような思考を巡らせたかは容易に想像できます。

本書では、こういった「日本史の中における、なんとも理屈がつかない事件や事象」を十八個取り上げて、それを地形や地政との関係から解釈して「おそらくこういう意図だったのではないか」という仮説を提示・説明しています。そのそれぞれに歴史的な学びがあり、また推理の進め方は分析的思考・抽象的思考の見本と言っていいものです。

本書を読むと二つのことを考えさせられます。

一つ目は、歴史に名を残した武将たちの地政学センスの高さです。先述した家康や信長は、武力や政治といった側面で優れていただけでなく、一種の都市開発、国土デザイナーとしても抜群のビジョンを持っていたことがわかります。

二つ目は、著者である竹村公太郎さんの知的態度です。竹村さんはもともと建設省の役人で、全国を土地開発で飛び回っているうちに、土地の有り様が文化や社会を規定すると考えるようになったそうです。本書で竹村さんが示している知的態度、つまりいかにもそれらしい教科書的な説明を鵜呑みにせずに、自分の観察と思考を頼りにして仮説を丁寧に積み上げていく、という態度は多くの人にとって参考にするべきものと思います。

読むと旅に出たくなる本です。面白いですよ。