Monday, August 22, 2016

0086 村に火をつけ、白痴になれ 栗原茂 ★★★


なんともスゴイタイトルですが、内容は大正期に活躍した女性評論家・・・というか無政府主義者・・・うーん、なんと記述しても、この人、伊藤野枝の八方破な人生を正確に言い得ない気がするのですが、とにかくそういったツマラナイ肩書きを拒否し尽くして笑いながら屹立するような人、そういう人の評伝です。

で、それでは説明になっていないので、別の角度からの記述をすれば、

とにかく「わがまま」ということを、徹底的に突き詰めて生ききった人

ということになるかと思います。

社会的な常識やルールをことごとく破り、だってそうしたいから、だって嫌なんだもん、の繰り返しで、最後にはご存知の通り、28歳の若さで憲兵隊にリンチされ、井戸に投げ捨てられてしまった人の壮絶な人生が描かれた本です。

あんまり知られていないことですが、伊藤野枝は、平塚らいてうが始めた初の女性向け雑誌である「青踏」の第二代編集長でもあった人です。平塚が忙しくって雑誌の編集はできないということで、半ば乗っ取る形で編集長におさまったんですが、野枝もあんまり仕事をしないので結局のところ「青鞜」は廃刊になってしまう。

じゃあ伊藤野枝はなにに忙しかったのかというと、これが驚くべきことにセックスなんですね。あの人素敵、セックスしたい、この人素敵、セックスしたい、ということで忙しくてしょうがない。で、この望みがことごとく叶っていくので、おそらくきっと魅力的な人だったんでしょう。写真を見ても別にセクシーというタイプでもないのですが、なんというか、センシュアルなところがあったのでしょうね。

当時モテモテだったアナキストの大杉栄は、野枝に出会った当時すでにドロドロの三角関係で、苦し紛れに自由恋愛論、結婚制度否定論を雑誌に寄稿していたのですが、野枝に出会ってゾッコンになってしまい、グニャグニャの骨抜き状態になってしまいます。よっぽどソソルものがあったのでしょうなあ、なんだか想像してしまいます。

面白いというか・・・笑ってはいけないのですが、困ったのは大杉栄をリーダーとしたう社会運動のメンバーたちです。我らがリーダーは、最近アジ論文も書かないし、集会にも来ない・・・一体何をやっとるんだ?ということで調べてみると、伊藤野枝という女と昼も夜もとにかくヤリまくっているらしい・・・。

ということで、社会運動の面々からは伊藤野枝は、偉大な社会改革リーダーである大杉栄を堕落させた張本人ということで、攻撃の標的にされることになります。ところがこれにまったく負けていないのがすごいところで、こんな感じだったようです。

この時期、社会主義の運動もうまくいっていなかったこともあり、その怒りの矛先が野枝に向けられたのである。11月2日、「近代思想」からの仲間であった五十里幸太朗が、ホテルをたずねてきた。あがりこむなり、五十里は野枝の顔をぶん殴った。ええっ、大杉がびっくりしていると、なぐられて憤慨した野枝が、「ウオオ!!!」といいながら五十里にタックルを仕掛けている。取っ組み合いになり、五十里を押し倒すと、マウントポジションを取って、そのままバシバシとぶん殴った。野枝の圧勝である。五十里は泣きながら帰っていった。(p88)

とまあ、こんな感じだったようです。最終的に大杉の四角関係ももつれにもつれて、以前からの愛人であった神近市子に葉山の日影茶屋・・・これは僕の家のすぐそばなんですが、に短刀で喉元を刺されて瀕死の重傷を負ったりと、もうハチャメチャとしか言いようのない乱脈人生で、最後には大杉と甥っ子と一緒に、憲兵隊の甘粕にリンチの上に虐殺され、井戸に投げ捨てられてしまうという、そういう人物の評伝です。

おそらく普通に教育されてきた人が読んだら、多くの部分について嫌悪感や違和感を覚えることになると思います。じゃあ何のために読むのかというと、その嫌悪感や違和感を、自分が抱えるその理由について考えてみることが、大事なんじゃないかと思うんです。

私たちは、「わがまま」ということに関して、徹底的にネガティブなものであるという刷り込みを、幼少期から受けていますよね。しかし、本当に「わがまま」ということは、良くないことなんでしょうか?もしかしたら「わがままは良くない」と思う、その価値観や道徳観が、自分の可能性を毀損しているのではないか。結果的に、伊藤野枝の人生は幸福なものだった、とは言い難い終わり方をしているわけですが、それでもこれを読む人に対して、何らかの認識の揺さぶりをかけるものがあると思うのですよね。

「わがままであること」の重要性を生涯にわたって説き続けた人物の一人にヘルマン・ヘッセがいます。ヘッセは、その名もずばり「わがまま」というタイトルのエッセイまで表して、「わがままのすすめ」を訴えました。ちょっと抜粋してみましょうか。

わがままが、さほど愛されていないのは残念なことである。わがままは何らかの敬意を受けているだろうか?おお、とんでもない。それは悪徳とさえ、さもなければ嘆かわしい無作法とさえみなされているのである。世の人は、それが人に不快感を与え、憎悪を引き起こす時だけ、それを本来のまともな名で呼んでくれる。ついでに言えば、本物の美徳はいつも人に不快感を与え、嫌悪感を引き起こすものだ。ソクラテス、イエス、ジョルダーノ・ブルーノ、およびその他全てのわがままものを見るがよい。
ヘルマン・ヘッセ「わがままこそ最高の美徳」より

とまあ、こんな感じに「わがまま」を激賞しているわけです。でも考えてみれば、ここにヘッセが上げているソクラテス、イエス、ジョルダーノの三人も結局、大杉や野枝と同じように処刑されていますよね。やっぱり、世の中の人はみんな「わがままな人」が怖かったり嫌いだったりする、ということなんでしょうか。新約聖書のマタイ福音書の8.28には、「二人は非常に凶暴で、だれもそのあたりの道を通れないほどであった」という二人をイエスが追い払った後で、やってきた村人は「イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいといった」とありますものね。ふー、度し難いな。

そういえば、伊藤野枝に関するこの本を読んでいる時に、しばしば思い出されたのがデニス・ホッパー主演の「イージーライダー」のこんなセリフです。この映画でも、ハーレーに乗って自由を満喫するための旅に出た中年男性の二人は、最後には保守的な人たちに虐殺されてしまうわけですが、徐々に迫り来る社会的な敵視を目の当たりにして、ジャック・ニコルソン演じるジョージ・ハンセンは鋭くもこう指摘します。

連中は君たちを恐れているわけじゃない。君たちの長い髪が象徴するものを恐れているんだ。この国では「個人の自由」が一応は国是になっているが、本当の「自由な個人」を見たとき、自由でない者はそれを恐れ、憎むんだ。
「イージーライダー」より

伊藤野枝に関するこの評伝を読んでも同じだよな、と。もしこの本を読んで嫌悪感や違和感を抱くとしたら、それはもしかしたら自分の中の恐れや憎しみの反映なのかも知れないなと、と思って読むといろいろと感じるところがあると思いますよ。

















ヘルマン・ヘッセ

Thursday, April 21, 2016

0085 馬券偽造師 中山憲治 ★★★


著者の中山憲治氏はもともとはプロの印刷技術者で、競馬はあくまで趣味でやっていた人です。それがある時、ふとプロならではの好奇心から、馬券にはどんな印刷技術が盛り込まれているのだろう?と思い立って調べてみるところから、もう面白すぎて止められません。

メーカーがライバル商品の研究をする時にやるリバースエンジニアリングもかくや、という緻密な分析の結果、もしかしてこれは作れるんと違うか?と。そこからのトライ&エラーはまさに執念としか言いようがありません。

本書は徹頭徹尾、犯罪の記録でしかないんですけど、読んでいて浮かび上がってくる精神性は犯罪者のそれでは全くなく、もうプロフェッショナリズムそのものです。俺の偽造を見破れるものなら見破ってみろ。ルパン三世は幻の偽札「ゴート札」をして「かつて本物以上とまで称えられた」と言っていますが、本書でも同様の記述があって、あまりにも完璧に偽造してしまうとかえって他の馬券から浮いてしまう・・・だから絶妙な程度にフォントのフチをぼやかして、他の馬券と混ぜた時に自然に見えるようにする、といったことが書かれています。

まことに、なんでも突き詰めた人は一つの奥義に至るというか、職業が異なるというのは入り口が異なるということなんですけど、突き詰めていって到達する奥の部屋は実は一つなんじゃないかという。

繰り返しますけど、この本は徹頭徹尾、犯罪の記録でしかないんですけど、読んでいて一種の爽やかさを感じるのが、著者の中山さんが、偽造馬券でだまし取った百万円単位のお金を、ことごとく競馬でスってしまっていて、自分の手元には全くお金を残さなかった、という点でしょうか。不思議な感覚ですよね・・・偽造馬券で何百万円もだまし取った、その直後に正規馬券を買うために、同じ額をぶっ込んで負けているという・・・。

面白いのが、犯罪が発覚してから、実は十年以上にわたってやっていて、合計で十億以上だまし取ってます・・・と自白した著者に対して、被害者である当のJRAが頑なに「馬券の偽造は絶対に不可能。ましてや十年以上にわたって発覚しなかったなんて有り得ない」と、頑なにそれを認めようとしなかったというところです。検察が困惑するんですよね、被疑者が犯罪を自白しているにもかかわらず、被害者が頑なにそれを否定しようとするという、実に不思議な裁判です。普通は真逆だもんね。

プロフェッショナリズムとかフロー体験とか、いろんなテーマと絡んでいる本なので、人事とか育成とかに関係のある仕事の人であれば、何か得るところがあると思います。夢中になれる何かを見つけると、人間ってここまですごい集中力を出せるんだなあ、という感慨を改めて得ました。





Friday, March 25, 2016

0084 小林一三 時代の十歩先が見えた男 北康利 ★★★


過去の優れた経営者を思い返すと、そこには二つのタイプがあるように思われます。

一つはソニーの盛田昭夫さんやホンダの本田宗一郎さんのような「モノづくり」に秀でた才能を発揮した経営者で、ここではこれを「エンジニア型経営者」と整理してみましょう。

一方で、特にモノを作ったわけではないのだけれど、やはり大きな事業を育てあげた経営者も思い浮かびますね。こういった経営者は、先ほどの「モノづくりに秀でた才能を発揮した経営者」に対比すれば、いわば「仕組みづくりに秀でた才能を発揮した経営者」と言えるわけで、これを「プロデューサー型経営者」として整理すれば、その筆頭に挙げられるのが小林一三であろうと思われます。

本書の紹介文を見ると「宝塚歌劇団を作りあげた男」と紹介されていますが、小林一三の業績はそんなものではありません。乾いた紹介の仕方をすれば、阪急電鉄の事実上の創業者、というコトになるわけですが、小林一三の本当の凄さは、鉄道というサービスのもたらす外部経済性に着目して、一種の事業エコシステムを作りあげた点にあります。

線路を引いて鉄道を走らせ、乗った人から距離に応じた運賃を取る。これが鉄道事業の基本です。したがって鉄道事業の収益は旅客数X運賃の積になるわけですが、小林一三は旅客数を増やすために様々な付帯サービスをパッケージ化したんですね。

例えば旅客需要を増やすためには郊外にベッドタウンを作り、そのベッドタウンと都市部を結べばいい。ところがベッドタウンを作っても家を買える人はそう多くないので、当時は着物の販売にしか用いられていなかった月賦販売に目をつけ、金融機関と提携して「住宅ローン」という仕組みを作って郊外の宅地を大量に売りさばく。

あるいはターミナル駅に劇場=宝塚歌劇場や映画館=東宝、百貨店=阪急デパートを設置して、通勤需要が取り込めない週末に人を動かすことで金を取り、動いた先でも金を落とす仕組みを作り上げる。

果ては、通勤需要が低迷する夏休み時期に、逆に全国から人を取り込むためのスポーツイベントとして阪急沿線の豊中にあった原っぱを活用することを思いつき、全国高校野球大会という集金システムを構想する等々。

小林一三がやったことを経済学的な用語で言えば、とにかく、鉄道輸送が作り出す外部経済性を徹底的に取り込むビジネスモデルを生み出したということになります。面白いのは、ここで小林一三がやっているのは徹底的にプロデュースでしかない、ということです。ここが冒頭にあげた「エンジニア型経営者」と異なるところです。

日本のモノづくりの力の衰退が叫ばれて久しいですが、未だに多くのメーカーは「良いものを安く」という発想から抜けきれず、エンジニアリング重視の競争力構築に邁進しているように見えます。一方で、小林一三のようなプロデューサー型の経営者はなかなか育ってこないし、そもそもそういう人材を評価して育てようとする気風も薄いように思います。モノを作る力で勝てなければ仕組みで勝つしかないわけで、これからの日本にこそ、小林一三のようなプロデューサーシップを持った経営者が望まれると思うんですけどね。

本書を読んでもう一つ感じるのが、リーダーシップの文脈依存性という問題です。先ほどもちらっと書きましたが、慶應義塾を卒業した小林一三が最初に入った会社は三井銀行でした。僕は見ていませんが、テレビドラマにもなったようなので、このあたりの顛末はご存知の方も多いかもしれませんが、三井銀行時代の小林一三は全くのダメ社員で左遷に次ぐ左遷に終始するんですよね。イノベーターというのは評価されないことが多いわけですが、日本の経済市場でも抜きん出たプロデューサーシップを発揮した経営者が、三十代まではうだつのあがらないサラリーマンに終始したという事実は、キャリアの面白さ、リーダーシップの文脈依存性について、深く考えさせられます。本人も「耐え難い憂鬱の時代」と述懐しているくらいだから、よっぽと水が合わなかったというか・・・まあ周囲の人材と器が違いすぎた、ということなんでしょう。

中途半端に優秀な人たちの集団に入ると、本当に優秀な人はむしろ沈んでしまうことが多い。思い出したんですけど白洲正子は骨董の選択について、贋作を掴むことを恐れていたら本当に優れた品は手に入らないと言ってますね。彼女は「真中の真は、往々にして贋物に見える。だからこそ贋物を掴むことを恐れていたら真中の真は手に入らない」と言っていますが、これは人材抜擢においてもイノベーションの実現においても言えるんじゃないかと思いますね。誰がどう見てもエリートで優秀という人ほど、意外と「そこそこ」でしかないということです。

読んでいて苦笑いするようなエピソードも多くて、僭越な言い方をすれば「愛すべき人物
だったんだろうなと思わせられます。ちなみに「ほめくりカレンダー」が大ヒットしている松岡修造さんは、小林一三の曾孫にあたる方です。誠に血は争えないというべきでしょうか。




Sunday, March 20, 2016

0083 プロカウンセラーの聞く技術 東山紘久 ★★★


著者の東山紘久さんは京都大学でながらく教鞭をとられた臨床心理学者です。本書は、プロのカウンセラーが現場で活用あるいは意識するべき31の「傾聴のテクニック」について説明している本です。僕もそれなりに臨床心理学者が書いた本を読んできましたけど、本書ほど具体的で、読んですぐに使えるという本はなかなかないと思います。

目次を読んでみるだけでその具体性の高さが分かると思います。例えば、わかりやすいものだけをピックアップしてみると、

01:聞き上手は話さない
04:相づちの種類は豊かに
08:自分のことは話さない
11:質問には二種類ある
12:情報以外の助言は無効
14:教えるより教えられる態度で
24:言い訳しない
25:説明しない
28:したくない話ほど前置きが長い

などは、目次を読んでいるだけでもハッとさせられます。

コミュニケーションの能力が、ビジネスパーソンにとってとても重要だということはよく認識されていると思いますが、ではコミュニケーション能力というのは、一体どういう能力なのか?よく顧客企業の人事の方とお話をしていると、新卒採用の基準で最も高頻度であげられる能力要件の一つがコミュニケーション能力なんですけど、ではコミュニケーション能力というのは、具体的にどういう能力なんですか?と伺うと規定できていないことがほとんどなんですよね。

単純に考えれば、コミュニケーションというのは情報のやり取りなわけですから、少なくとも「情報を押し出す能力」と「情報を引き出す能力」くらいには分解できそうです。そして本書は、徹底的に後者、つまり「相手から情報を引き出す」ためのスキルについて書かれています。

で、この「出す能力」と「取る能力」のバランスを考えてみると、今後はどんどん後者の重要性が高まるように思うんですよね。なぜかというと「学習」が非常に重要になってくるからです。知識やスキルがどんどん陳腐化する社会では、キャリアの全期間を通じて、どれくらい効率よく再学習できるかがその人の仕事人生の豊かさを決める重要な要素になってきます。で、学習というのは情報を「引き出す」ことで初めて可能になるわけですから、これは非常に重要だろうと思うわけです。

例えば現場を離れて久しい管理職が、最新情報のアップデートをしないままにリーダーとしてのオーソリティを維持できるかというと、これはとても難しい。裸の王様にいずれはならざるを得ないわけで、それを防ごうと思ったら、常に自分より若い人から意見や情報を引き出して再学習することが求められるわけです。

知識やスキルというものは、すぐに役立つものほどすぐに役立たなくなるという傾向がありますが、本書で学べる「傾聴の技術」は、読んですぐに役立つにもかかわらず、おそらく一生のあいだ、職場だけでなく家族やコミュニティの人間関係の改善や自分の学習に貢献してくれると思いますよ。

Tuesday, March 15, 2016

0082 写真がもっと好きになる。 菅原一剛 ★★


もとより写真好きという人であればもちろんですが、写真に興味はあるけれども、どこから手をつけていいのかわからない、という人にこそ読んでほしい本です。

僕個人は、本書を読んで二つのことを思いまして、順に一つずつ。

一つ目は、素直に写真に向き合うことの大事さです。写真に向き合った時に、自分の心の中に起こる変化に耳を澄ますこと。目を凝らして、写真をていねいに見る、観る、視ること、耳を澄まして、心の中に起こる感覚をていねいに聞く、聴く、訊くこと。

美術史なんぞを勉強すると余計な知識がいろいろと身についてしまって、素直な感覚に身を任せて作品と向き合うことが難しくなります。どうしても解釈しようとしてしまうんですね。でもこれがくせ者でして、そういう態度で作品に接してしまうと、その作品が本来的に持っている豊かさを十分に楽しめない、むしろ減殺してしまう可能性があります。

大好きな批評家のスーザン・ソンタグは著書『反解釈』のなかで、薄っぺらい芸術評論の横行を痛烈に批判して、次のように書いていますね。

都市の大気を汚染する自動車の排気ガスや重工業の煤煙と同様、芸術に対する解釈の横行がわたしたちの感受性を毒している。(中略)肉体的活力と感覚的能力の犠牲において、知性が過大に肥大する、という典型的な矛盾にすでに犯されているのがわたしたちの文化であるが、これに輪をかけるようにして、芸術にたいして知性が恨みを果たそうという試みが、すなわち解釈なのだ。
スーザン・ソンタグ『反解釈』より


芸術を解釈するっていうとまずは批評家ということになりまずが、では批評家とは何者なのか。批評家ってだいたいはアーティストになれなかった人が、行き詰まった末にしょうがなく食うためにやっている職業なんで、批評のクオリティが低いのは仕方がないんです・・・モチベーションが低いんでしょうね、というのは僕の意見ではなくって坂本龍一さんの意見ですが(※1)、さてどうなんでしょうかね。

これは写真に限らず、絵画でも彫刻でも詩でも音楽でもそうなんですけど、よく「わかる」とか「わからない」といったことを言う人がいますよね。ルノアールはわかるけどデミアン・ハーストはわからない、モーツァルトはわかるけどクセナキスはわからない、みたいな言い方なんですけど、じゃあルノアールがわかるの!?モーツァルトがわかるの!?すごいですね!!!と驚いてみせると、いや、わかるっていうか、なんか理解できるというか・・・みたいな中途半端な反応で終わることが殆どです。

そもそも「わかる」といってることが「わかってない」証拠で、芸術作品だけでなく、映画も人間も家具も法律もレトルト食品も「わかる」わけがないんです。じゃあどうするかとなると、かわりに「感じる」しかないということです。正しい「解釈」はない。わかるというのは正解がある世界を念頭に置いていますが、写真は謎解きではないので正解はない。ということで話を元に戻せば、この「感じる」ということをまずは最初に持ってこようよ、ということを再確認したのが、一番目に本書を読んで考えたことです。

で、二つ目は、写真を「撮る」側の態度、を再確認したということになります。どういう態度かというと、「映すべき被写体は、外の世界ではなく貴方の中にある」ということです。

高校から大学にかけて、付属高校ゆえに受験勉強の必要がないこともあって、ずっと作曲の勉強に没頭していました。本当に、学校の授業も最低限しか出席せずに、芸大の図書館や練習室に忍び込んで楽譜に向き合っていたんですけれども、今考えると「音楽を生み出す」という営みについて、長いこと根本的な勘違いをしていたんですよね。

それはどういうことかというと、僕は「どこかに素晴らしい音がある」と思って、自分の外の世界に音を探しに行くというモードでずっと作曲していたんです。これはまった才能がないからであって、今から考えれば本当に赤面するしかないんですけど、本当は、音楽を作るという行為は全く逆の営みで、「自分の中に鳴っている音に耳をすます、それを掬い取る」ということなんですよね。

で、本書を読んで、菅原さんが、写真を撮るという行為は対象となる世界を客観的に切り取る、ということでは全くなくって、その時に感じた自分の感覚を世界を題材にして写し取るという行為だ、という趣旨の指摘をされているのに接して、あああまた同じ勘違いをしていたんだな、と。写真を撮る時に一番大事なのは構図とか露出とか、まあいろいろありますけど、切り取ろうとしている世界の一部によって自分のどういう気持ちを表現したいかなんだな、ということをあらためて認識させられたというのが二つ目の気づきです。

菅原さんは単純に、寂しいなあという気持ちがわいた風景であれば、思いっきり「寂しい!」と感じながら撮れ、と言っています。そうしないと「寂しい!」という感覚は写真には映らないよ、と。おおお、むちゃくちゃわかりやすい。

すいません、なんかむちゃくちゃわかりにくい文章になってしまいましたが、この本、写真に興味のある人に勧めてだいたい感謝されているので、本当にオススメです。僕自身が、この本読んであらためてちゃんとカメラと向き合おう、と思いましたから。

※1:さすがに無責任なので、どこでそう言ってたかを調べてみたら、1986年に出版された吉本隆明との対談本=『音楽機械論』のなかにありました。高校生の時に読んだ本だけど覚えているものですね。この本、吉本隆明と坂本龍一という、今から考えればありえない組み合わせの対談本なんですけど、吉本隆明に「坂本龍一を鋭く批評したものがないか」と問われて「ない」と答えた坂本龍一さんが「どうしてですかね。耳のいい人がいないんじゃないですか、音楽評論家で。つまり、ちゃんと聴いてないんじゃないですか。皆二流なんです。ほとんど音楽家になれなかった人が評論家やってたり、ぜんぜんモチーフとかがないんじゃないかしらね」と返しているのが原典ということになります。